2024年10月31日
究極の個人情報
究極の個人情報
営業とは「自分を売る」?
「営業とは単に商品を売るのではない。自分を売ることだ」
私は民間企業での営業の経験はありませんが、よく聞く言葉です。
「自分を売る」とは、自分を「売り渡す」ようで、ちょっと引っかかる表現に感じましたが、
「営業とはそういうものか」と感心させられました。
同時に「『自分を売る』とは、どういう事だろうか」と疑問に思いました。
先日読んだある冊子に、この言葉が取り上げられており、
「自分を売る」とはどういう事か、が述べられていました。
著者は、
「お客様の心をつかむポイント」は「個人情報」、と言います。
ありきたりな情報には関心が持たれず、
その人ならではの情報に惹かれる、ということでした。
選挙の例を挙げれば、
町の現状を分析したり、現体制を批判したり、発展策を述べた候補者よりも、
苦学してきた自身の歩みを述べた候補者が当選したこと。
それは、候補者の「個人情報」に選挙民が惹かれたのである、
というものでした。
伝記やドキュメントなどでは、「その人」の業績もさることながら、
生い立ちや苦労話に、やはり関心を引かれます。
営業においては、お客様の知りたいことを話す、
それが「自分を売る」ということのようです。
個人情報が残されていない親鸞聖人
それとは全く対照的なのが親鸞聖人です。
「個人情報」がほとんど残されていないのです。
著書は多くありますが、
自身については、ほとんど語っておられません。
それなのに、なぜ、惹かれるのか。
あらためて、疑問に思います。
どこかで読んだ話に、
「その小説は、『私』についての説明が少ないから、感情移入できる」
とありました。
読書の好みは様々でしょうけれど、
言われてみれば、そうだなあと思えることです。
親鸞聖人の言葉は、「いつ、こういう出来事があって、こう考えるに至った」
というような、状況説明はありません。
緻密な『教行信証』は論文ですが、「著者略歴」のようなものは出てきません。
多くの人に読まれるものとしては、
仏事で勤められる『正信偈』があります。
「偈」(うた)として作られたのですから、
当然ではありますが、文字数や韻を揃えた詩の形式です。
一般に有名なのは、親鸞聖人の著書ではなく、「聞き書き」というべき『歎異抄』でしょう。
こちらも『詩』に近い印象です。
それが、かえって、読む人にとって、
感情移入しやすいのかもしれません。
自分に遇う
「求めている人」が手に取る、ということも大きいでしょう。
何か明らかにしたいことがあって読む。
そこには、状況説明や時代背景よりも、
時間を越えて通じるものが求められます。
もう少し言えば、親鸞聖人のことばを通して、
読んでいる自分に出遇っていく営みなのです。
「詩」だからこそ、読んで自分に出遇い得るのではないかと思います。
究極の個人情報
もしかすると、それは究極の個人情報なのではないか、
と思えるのです。
省けるものを省いて、自分の思いを綴る。
詩とはそういうものではないかと思います。
親鸞聖人は「偈」という形で詩をあらわしましたが、
明らかにしたい事柄を、端的に表現したものです。
ゆえに、引寄せられるのではないでしょうか。
読み手は引寄せられて、自分に遇うのでしょう。
報恩講
本年も親鸞聖人のご命日のつどいである報恩講(ほうおんこう)の季節となりました。
当明行寺では、11月8日(金)9日(土)にお勤めします。
御参詣をお待ちしております。
営業とは「自分を売る」?
「営業とは単に商品を売るのではない。自分を売ることだ」
私は民間企業での営業の経験はありませんが、よく聞く言葉です。
「自分を売る」とは、自分を「売り渡す」ようで、ちょっと引っかかる表現に感じましたが、
「営業とはそういうものか」と感心させられました。
同時に「『自分を売る』とは、どういう事だろうか」と疑問に思いました。
先日読んだある冊子に、この言葉が取り上げられており、
「自分を売る」とはどういう事か、が述べられていました。
著者は、
「お客様の心をつかむポイント」は「個人情報」、と言います。
ありきたりな情報には関心が持たれず、
その人ならではの情報に惹かれる、ということでした。
選挙の例を挙げれば、
町の現状を分析したり、現体制を批判したり、発展策を述べた候補者よりも、
苦学してきた自身の歩みを述べた候補者が当選したこと。
それは、候補者の「個人情報」に選挙民が惹かれたのである、
というものでした。
伝記やドキュメントなどでは、「その人」の業績もさることながら、
生い立ちや苦労話に、やはり関心を引かれます。
営業においては、お客様の知りたいことを話す、
それが「自分を売る」ということのようです。
個人情報が残されていない親鸞聖人
それとは全く対照的なのが親鸞聖人です。
「個人情報」がほとんど残されていないのです。
著書は多くありますが、
自身については、ほとんど語っておられません。
それなのに、なぜ、惹かれるのか。
あらためて、疑問に思います。
どこかで読んだ話に、
「その小説は、『私』についての説明が少ないから、感情移入できる」
とありました。
読書の好みは様々でしょうけれど、
言われてみれば、そうだなあと思えることです。
親鸞聖人の言葉は、「いつ、こういう出来事があって、こう考えるに至った」
というような、状況説明はありません。
緻密な『教行信証』は論文ですが、「著者略歴」のようなものは出てきません。
多くの人に読まれるものとしては、
仏事で勤められる『正信偈』があります。
「偈」(うた)として作られたのですから、
当然ではありますが、文字数や韻を揃えた詩の形式です。
一般に有名なのは、親鸞聖人の著書ではなく、「聞き書き」というべき『歎異抄』でしょう。
こちらも『詩』に近い印象です。
それが、かえって、読む人にとって、
感情移入しやすいのかもしれません。
自分に遇う
「求めている人」が手に取る、ということも大きいでしょう。
何か明らかにしたいことがあって読む。
そこには、状況説明や時代背景よりも、
時間を越えて通じるものが求められます。
もう少し言えば、親鸞聖人のことばを通して、
読んでいる自分に出遇っていく営みなのです。
「詩」だからこそ、読んで自分に出遇い得るのではないかと思います。
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もしかすると、それは究極の個人情報なのではないか、
と思えるのです。
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詩とはそういうものではないかと思います。
親鸞聖人は「偈」という形で詩をあらわしましたが、
明らかにしたい事柄を、端的に表現したものです。
ゆえに、引寄せられるのではないでしょうか。
読み手は引寄せられて、自分に遇うのでしょう。
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御参詣をお待ちしております。
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Posted by 明行寺住職 at 10:30│Comments(0)
│法話
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