2007年10月09日
生き返る、という思い

涼しくしくなったある朝、虫かごの中をのぞいた4歳の息子が
「クワガタが動かなくなった」と言いました。
その寂しげな顔は初めて見ました。
叔父が持ってきて以来、6歳の娘と一緒に虫かごをのぞいては
「けんかしてる」「ごはんたべてる」と、いつも楽しんでいましたが、
今朝は私と3人で「ありがとう。さようなら」と言って土に埋めました。
「(虫かごの中にいて)自然じゃなかったから死んじゃったのかな」と、息子。
そんなことも感じていたようです。
生き物や人が死んだ後、生き返ると思っている子どもが最近増えているという話を聞きますが、
本当にそんな子がいるのか、にわかには信じ難いことです。
それはテレビゲームなど、
簡単に人を「死なせたり、生き返らせたりする」ものの影響と言われていますが、
私にはそれはちょっと疑問なのです。
それも原因の一つかもしれませんが、
むしろ大人の方が案外とどこかで「生き死に」をその時どきの都合で受けとっており、
それが子どもにも影響しているのではないか、と思えるのです。
亡くなった人を、生きているものの都合で讃えたり恐れたりもしています。
よい意味での「あきらめる」ことが難しい時代だと、
あるシンポジウムでパネラーの一人が語っていました。
私たちの「ああしたい、これがほしい」という思いが、
物の豊かさや便利さの面では大体叶えられてしまう、
そんな世の中にあって、思いが叶わぬことを受け止めるのが苦手になってきています。
何とかせずにはおれない思いが、
人生の終わりや亡き後,を、これまで以上に受け止められなくさせています。
多くの知識と欲の付いてきた時、
2人の子どもは死を同じ様に「ありがとう。さようなら」と思えるのか、
それは親である私の生き方次第なのかもしれません。
写真は以前のものです。クレーンは工事中の頃。空がビルに覆われてきました。
文章は、寺の便り「明行寺通信」10月20日号に掲載したものに加筆したものです。
2007年10月09日
法話…に、なりますように
こわいもの知らずの副住職が、「法話」を書いていきます。
ついつい、「つぶやき」になってしまうのかもしれませんが、
書いていくうちに、法話になっていきますように。
慣れぬことをやっていますので、ゆっくりで慎重すぎなのかもしれませんが、
よろしくお願いします。
ついつい、「つぶやき」になってしまうのかもしれませんが、
書いていくうちに、法話になっていきますように。
慣れぬことをやっていますので、ゆっくりで慎重すぎなのかもしれませんが、
よろしくお願いします。