2024年10月31日
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その163
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その163
ゴミを拾おうとしゃがんだら、
2匹ともこちらへやってきました。
目の高さを合わせることは大事なようです。
2匹、なんだか、幼馴染のおっちゃんたちが、
散歩の途中で会話している風情であります。
実際、そのとおりで、どちらも同じ時期の生まれ。
僕と会ってからも長いのです。
ゴミを拾おうとしゃがんだら、
2匹ともこちらへやってきました。
目の高さを合わせることは大事なようです。
2匹、なんだか、幼馴染のおっちゃんたちが、
散歩の途中で会話している風情であります。
実際、そのとおりで、どちらも同じ時期の生まれ。
僕と会ってからも長いのです。
2024年10月31日
究極の個人情報
究極の個人情報
営業とは「自分を売る」?
「営業とは単に商品を売るのではない。自分を売ることだ」
私は民間企業での営業の経験はありませんが、よく聞く言葉です。
「自分を売る」とは、自分を「売り渡す」ようで、ちょっと引っかかる表現に感じましたが、
「営業とはそういうものか」と感心させられました。
同時に「『自分を売る』とは、どういう事だろうか」と疑問に思いました。
先日読んだある冊子に、この言葉が取り上げられており、
「自分を売る」とはどういう事か、が述べられていました。
著者は、
「お客様の心をつかむポイント」は「個人情報」、と言います。
ありきたりな情報には関心が持たれず、
その人ならではの情報に惹かれる、ということでした。
選挙の例を挙げれば、
町の現状を分析したり、現体制を批判したり、発展策を述べた候補者よりも、
苦学してきた自身の歩みを述べた候補者が当選したこと。
それは、候補者の「個人情報」に選挙民が惹かれたのである、
というものでした。
伝記やドキュメントなどでは、「その人」の業績もさることながら、
生い立ちや苦労話に、やはり関心を引かれます。
営業においては、お客様の知りたいことを話す、
それが「自分を売る」ということのようです。
個人情報が残されていない親鸞聖人
それとは全く対照的なのが親鸞聖人です。
「個人情報」がほとんど残されていないのです。
著書は多くありますが、
自身については、ほとんど語っておられません。
それなのに、なぜ、惹かれるのか。
あらためて、疑問に思います。
どこかで読んだ話に、
「その小説は、『私』についての説明が少ないから、感情移入できる」
とありました。
読書の好みは様々でしょうけれど、
言われてみれば、そうだなあと思えることです。
親鸞聖人の言葉は、「いつ、こういう出来事があって、こう考えるに至った」
というような、状況説明はありません。
緻密な『教行信証』は論文ですが、「著者略歴」のようなものは出てきません。
多くの人に読まれるものとしては、
仏事で勤められる『正信偈』があります。
「偈」(うた)として作られたのですから、
当然ではありますが、文字数や韻を揃えた詩の形式です。
一般に有名なのは、親鸞聖人の著書ではなく、「聞き書き」というべき『歎異抄』でしょう。
こちらも『詩』に近い印象です。
それが、かえって、読む人にとって、
感情移入しやすいのかもしれません。
自分に遇う
「求めている人」が手に取る、ということも大きいでしょう。
何か明らかにしたいことがあって読む。
そこには、状況説明や時代背景よりも、
時間を越えて通じるものが求められます。
もう少し言えば、親鸞聖人のことばを通して、
読んでいる自分に出遇っていく営みなのです。
「詩」だからこそ、読んで自分に出遇い得るのではないかと思います。
究極の個人情報
もしかすると、それは究極の個人情報なのではないか、
と思えるのです。
省けるものを省いて、自分の思いを綴る。
詩とはそういうものではないかと思います。
親鸞聖人は「偈」という形で詩をあらわしましたが、
明らかにしたい事柄を、端的に表現したものです。
ゆえに、引寄せられるのではないでしょうか。
読み手は引寄せられて、自分に遇うのでしょう。
報恩講
本年も親鸞聖人のご命日のつどいである報恩講(ほうおんこう)の季節となりました。
当明行寺では、11月8日(金)9日(土)にお勤めします。
御参詣をお待ちしております。
営業とは「自分を売る」?
「営業とは単に商品を売るのではない。自分を売ることだ」
私は民間企業での営業の経験はありませんが、よく聞く言葉です。
「自分を売る」とは、自分を「売り渡す」ようで、ちょっと引っかかる表現に感じましたが、
「営業とはそういうものか」と感心させられました。
同時に「『自分を売る』とは、どういう事だろうか」と疑問に思いました。
先日読んだある冊子に、この言葉が取り上げられており、
「自分を売る」とはどういう事か、が述べられていました。
著者は、
「お客様の心をつかむポイント」は「個人情報」、と言います。
ありきたりな情報には関心が持たれず、
その人ならではの情報に惹かれる、ということでした。
選挙の例を挙げれば、
町の現状を分析したり、現体制を批判したり、発展策を述べた候補者よりも、
苦学してきた自身の歩みを述べた候補者が当選したこと。
それは、候補者の「個人情報」に選挙民が惹かれたのである、
というものでした。
伝記やドキュメントなどでは、「その人」の業績もさることながら、
生い立ちや苦労話に、やはり関心を引かれます。
営業においては、お客様の知りたいことを話す、
それが「自分を売る」ということのようです。
個人情報が残されていない親鸞聖人
それとは全く対照的なのが親鸞聖人です。
「個人情報」がほとんど残されていないのです。
著書は多くありますが、
自身については、ほとんど語っておられません。
それなのに、なぜ、惹かれるのか。
あらためて、疑問に思います。
どこかで読んだ話に、
「その小説は、『私』についての説明が少ないから、感情移入できる」
とありました。
読書の好みは様々でしょうけれど、
言われてみれば、そうだなあと思えることです。
親鸞聖人の言葉は、「いつ、こういう出来事があって、こう考えるに至った」
というような、状況説明はありません。
緻密な『教行信証』は論文ですが、「著者略歴」のようなものは出てきません。
多くの人に読まれるものとしては、
仏事で勤められる『正信偈』があります。
「偈」(うた)として作られたのですから、
当然ではありますが、文字数や韻を揃えた詩の形式です。
一般に有名なのは、親鸞聖人の著書ではなく、「聞き書き」というべき『歎異抄』でしょう。
こちらも『詩』に近い印象です。
それが、かえって、読む人にとって、
感情移入しやすいのかもしれません。
自分に遇う
「求めている人」が手に取る、ということも大きいでしょう。
何か明らかにしたいことがあって読む。
そこには、状況説明や時代背景よりも、
時間を越えて通じるものが求められます。
もう少し言えば、親鸞聖人のことばを通して、
読んでいる自分に出遇っていく営みなのです。
「詩」だからこそ、読んで自分に出遇い得るのではないかと思います。
究極の個人情報
もしかすると、それは究極の個人情報なのではないか、
と思えるのです。
省けるものを省いて、自分の思いを綴る。
詩とはそういうものではないかと思います。
親鸞聖人は「偈」という形で詩をあらわしましたが、
明らかにしたい事柄を、端的に表現したものです。
ゆえに、引寄せられるのではないでしょうか。
読み手は引寄せられて、自分に遇うのでしょう。
報恩講
本年も親鸞聖人のご命日のつどいである報恩講(ほうおんこう)の季節となりました。
当明行寺では、11月8日(金)9日(土)にお勤めします。
御参詣をお待ちしております。
2024年10月31日
掲示板の言葉 2024年11月
掲示板の言葉 2024年11月
ないものを ほしがらんで
あるものを よろこばしてもらおうよのう
松本梶丸 (聞き書き)編集『生命の大地に根を下ろし』樹心社
ないものを ほしがらんで
あるものを よろこばしてもらおうよのう
松本梶丸 (聞き書き)編集『生命の大地に根を下ろし』樹心社
ないものを ほしがらんで
あるものを よろこばしてもらおうよのう
松本梶丸 (聞き書き)編集『生命の大地に根を下ろし』樹心社
ないものを ほしがらんで
あるものを よろこばしてもらおうよのう
松本梶丸 (聞き書き)編集『生命の大地に根を下ろし』樹心社
2024年10月03日
2024年09月30日
2024年09月30日
「あの頃」に、置いてきたこと
「あの頃」に、置いてきたこと
同窓会
先日、中学校の学年同窓会があり、
恩師をはじめ、級友だけでなくクラスの垣根を越えて久々の再会をしました。
なつかしいことがたくさんありましたが、
プログラムに「なつかしアニソン、イントロクイズ」というものがあって、
ピアノ奏者となった同窓生が、イントロを弾いてくれました。
幹事会で、この企画をしていた時に、話の続きで、
「我々世代のヒット曲を集めたサイトもある」
という話になりました。
「〇〇歳代 懐かし ヒット曲」などと検索すると、
そんなサイトがいくつもあって、
聴いている人は結構いました。
「ああ、そういうことで懐かしむ年齢になったなあ」
という結論になりました。
かく言う私も、連れ合いの持っているそんなCDを(これも懐かしい部類に入るのかもしれませんが)、
車で長距離を移動する時に、借りて聴いています。
当時はもう少し先のこと
聴いていて、いつも考えることがあります。
曲が流行った当時、中学・高校生だった自分のことですが、
歌詞にある内容は、自分にはもう少し先のことと思っていました。
いわゆる「大人の世界に近づく」内容で、
10代後半の内容もあるけれども、
まあ、20歳代には経験するであろう、と思える事柄でした。
それが、今、その曲を聴いて、懐かしいとは感じるのだけれども、
自分にはそういう時期はあったのだろうか、と思うのです。
曲のように格好の良いふるまいは自分には縁が無かった、
というところが事実なのでしょう。
ドラマチックなことも起こらず、
気が付いたら、この歳になっていた、というのが実感です。
けれども、格好よくなくとも、
自分なりに「大人になったなあ」という思い出があったかというと、
それらしいことが見当たりません。
泥臭くても、「成長の過程だった」という出来事も、
語る程のものはないのです。
忘れていることも多いので、それは仕方がないのですが、
果たして成長したのか、と、どこか自信なさげになってしまいます。
その年代で向き合わなくてはいけないこと
格好よくできたかどうか、はともかく、
その年齢、その時、でないと味わえないことがあり、
向き合わねばないらないことも、あります。
「10代で向き合わないといけないことを、何となくごまかしていると、
20代で同じことで悩む、
20代で向き合うべきことに向き合わないと、
やはり30代で同じ根っこの悩みに苦しむ」
ある、カウンセラーの言葉です。
言われてみれば、その通りだと感じることがいくつもあります。
例えば、仕事で何かに気を取られて、あるいは、不必要に気遣いをして
ミスをしてしまった、という場合。
子ども時代にも、同じような原因や状況でミスをしていたものだと、
苦々しく思い出されます。
自分の傾向はなかなか直らないものですが、
苦手なことをごまかしていたり、
波風たたぬように自分を抑えていたりすると、
やはり、どこかでそれが表れてくるものです。
向き合わねばならない、自分の何か、と向き合ってこなかったためです。
このままいくか
ごまかせるようで、ごまかせないのが自分です。
同窓会という、年齢を意識させられるイベントがあったからでしょうか、
「さて、自分は何をしてきたのか」とか、
「これからどんなスタイルでいこうか」などと、
妙に考えさせられるここ数日なのです。
「たれの人も後生の一大事を心にかけて」(『御文』)
とは、蓮如上人の言葉です。
「後生」は、「死後」のことですが、
当時の世界観により、「亡くなった後のこと」を語り出すことで、
亡くなる前にすべきことを意識させるものと、私は受け止めています。
また、蓮如上人の教えに触れた方が、
「わかきとき、仏法はたしなめ」(『蓮如上人御一代記聞書』)
と記しておられます。
若い時に縁の無さそうなイメージのある仏教ですが、
若いときにこそ仏法を聞くべく理由は、
「なぜなら、年をとれば、足が弱って教えを聞く場所に行くこともできなくなり、
大事な教えを聞いていても眠たくなってしまうからです」
(意訳参考『大谷大学HP』)
と語られています。
高齢で足が弱ることもありますが、
それよりも、
「まだまだ若い」という思いで過ごしているうちにこそ聞くべし、
という面もあるようです。
「まだ、向き合わなくてもいいだろう」と思っているあなたこそ、
向き合うべきことに向き合ってほしい、というメッセージを感じます。
今、引っかかっていること
「何かちがうような気がする」というような、
日頃、自分の中で引っかかっていることがあります。
きちんと向き合うべき事柄なのでしょう。
「あの頃」に自分の中で解決しておくべきことだったのかもしれません。
そんな形で出てきた「置いてきたこと」に、
向き合う時なのか、と思うこの頃です。
同窓会
先日、中学校の学年同窓会があり、
恩師をはじめ、級友だけでなくクラスの垣根を越えて久々の再会をしました。
なつかしいことがたくさんありましたが、
プログラムに「なつかしアニソン、イントロクイズ」というものがあって、
ピアノ奏者となった同窓生が、イントロを弾いてくれました。
幹事会で、この企画をしていた時に、話の続きで、
「我々世代のヒット曲を集めたサイトもある」
という話になりました。
「〇〇歳代 懐かし ヒット曲」などと検索すると、
そんなサイトがいくつもあって、
聴いている人は結構いました。
「ああ、そういうことで懐かしむ年齢になったなあ」
という結論になりました。
かく言う私も、連れ合いの持っているそんなCDを(これも懐かしい部類に入るのかもしれませんが)、
車で長距離を移動する時に、借りて聴いています。
当時はもう少し先のこと
聴いていて、いつも考えることがあります。
曲が流行った当時、中学・高校生だった自分のことですが、
歌詞にある内容は、自分にはもう少し先のことと思っていました。
いわゆる「大人の世界に近づく」内容で、
10代後半の内容もあるけれども、
まあ、20歳代には経験するであろう、と思える事柄でした。
それが、今、その曲を聴いて、懐かしいとは感じるのだけれども、
自分にはそういう時期はあったのだろうか、と思うのです。
曲のように格好の良いふるまいは自分には縁が無かった、
というところが事実なのでしょう。
ドラマチックなことも起こらず、
気が付いたら、この歳になっていた、というのが実感です。
けれども、格好よくなくとも、
自分なりに「大人になったなあ」という思い出があったかというと、
それらしいことが見当たりません。
泥臭くても、「成長の過程だった」という出来事も、
語る程のものはないのです。
忘れていることも多いので、それは仕方がないのですが、
果たして成長したのか、と、どこか自信なさげになってしまいます。
その年代で向き合わなくてはいけないこと
格好よくできたかどうか、はともかく、
その年齢、その時、でないと味わえないことがあり、
向き合わねばないらないことも、あります。
「10代で向き合わないといけないことを、何となくごまかしていると、
20代で同じことで悩む、
20代で向き合うべきことに向き合わないと、
やはり30代で同じ根っこの悩みに苦しむ」
ある、カウンセラーの言葉です。
言われてみれば、その通りだと感じることがいくつもあります。
例えば、仕事で何かに気を取られて、あるいは、不必要に気遣いをして
ミスをしてしまった、という場合。
子ども時代にも、同じような原因や状況でミスをしていたものだと、
苦々しく思い出されます。
自分の傾向はなかなか直らないものですが、
苦手なことをごまかしていたり、
波風たたぬように自分を抑えていたりすると、
やはり、どこかでそれが表れてくるものです。
向き合わねばならない、自分の何か、と向き合ってこなかったためです。
このままいくか
ごまかせるようで、ごまかせないのが自分です。
同窓会という、年齢を意識させられるイベントがあったからでしょうか、
「さて、自分は何をしてきたのか」とか、
「これからどんなスタイルでいこうか」などと、
妙に考えさせられるここ数日なのです。
「たれの人も後生の一大事を心にかけて」(『御文』)
とは、蓮如上人の言葉です。
「後生」は、「死後」のことですが、
当時の世界観により、「亡くなった後のこと」を語り出すことで、
亡くなる前にすべきことを意識させるものと、私は受け止めています。
また、蓮如上人の教えに触れた方が、
「わかきとき、仏法はたしなめ」(『蓮如上人御一代記聞書』)
と記しておられます。
若い時に縁の無さそうなイメージのある仏教ですが、
若いときにこそ仏法を聞くべく理由は、
「なぜなら、年をとれば、足が弱って教えを聞く場所に行くこともできなくなり、
大事な教えを聞いていても眠たくなってしまうからです」
(意訳参考『大谷大学HP』)
と語られています。
高齢で足が弱ることもありますが、
それよりも、
「まだまだ若い」という思いで過ごしているうちにこそ聞くべし、
という面もあるようです。
「まだ、向き合わなくてもいいだろう」と思っているあなたこそ、
向き合うべきことに向き合ってほしい、というメッセージを感じます。
今、引っかかっていること
「何かちがうような気がする」というような、
日頃、自分の中で引っかかっていることがあります。
きちんと向き合うべき事柄なのでしょう。
「あの頃」に自分の中で解決しておくべきことだったのかもしれません。
そんな形で出てきた「置いてきたこと」に、
向き合う時なのか、と思うこの頃です。
2024年09月20日
2024年 報恩講(ほうおんこう)におこしください
2024年 報恩講(ほうおんこう)におこしください
11月8日(金)午後2時~4時
9日(土)午後1時30分~3時30分
午後5時~ お斎(食事)は18時半頃~
都合のよい回にご出席ください。
参加費は無料です。
報恩講は宗祖親鸞聖人のご命日に、門徒(檀家)がつどい、
聖人の教えによって、この一年間の自分を振り返るるひとときです。
本堂でお勤めをして、聖人のご生涯を描いた掛け軸を住職が解説します。
その後はホールにて法話とお茶の時間です。
「仏教の話は初めて」という方、特に歓迎です。
普段なかなかおいでになれない方、初めての方、門徒(「檀家」)でない方ももお気軽にどうぞ。
報恩講は浄土真宗のどのお寺でも、おこなわれる、もっとも大切な行事です。
明行寺の「本山」である、京都・東本願寺では11月21日から、
祥月ご命日である28日まで法要が勤められます。
11月8日(金)午後2時~4時
9日(土)午後1時30分~3時30分
午後5時~ お斎(食事)は18時半頃~
都合のよい回にご出席ください。
参加費は無料です。
報恩講は宗祖親鸞聖人のご命日に、門徒(檀家)がつどい、
聖人の教えによって、この一年間の自分を振り返るるひとときです。
本堂でお勤めをして、聖人のご生涯を描いた掛け軸を住職が解説します。
その後はホールにて法話とお茶の時間です。
「仏教の話は初めて」という方、特に歓迎です。
普段なかなかおいでになれない方、初めての方、門徒(「檀家」)でない方ももお気軽にどうぞ。
報恩講は浄土真宗のどのお寺でも、おこなわれる、もっとも大切な行事です。
明行寺の「本山」である、京都・東本願寺では11月21日から、
祥月ご命日である28日まで法要が勤められます。
2024年09月11日
おみがき…報恩講の準備 仏具のお手入れ
2024年 おみがき…報恩講の準備 仏具のお手入れ
2024年10月18日(金)午前10時~12時
終了後に寺にて昼食をいただきます。
本堂の仏具をみがきます。初めての方も楽しくできます
*申し込み…昼食の準備の関係上、10月14日(月)までにご連絡ください。
申込人数が20人になりましたら、締め切らせていただきます。
昼食も含めて参加費は無料です。
*汚れてもよい服装でおこしください。
2024年10月18日(金)午前10時~12時
終了後に寺にて昼食をいただきます。
本堂の仏具をみがきます。初めての方も楽しくできます
*申し込み…昼食の準備の関係上、10月14日(月)までにご連絡ください。
申込人数が20人になりましたら、締め切らせていただきます。
昼食も含めて参加費は無料です。
*汚れてもよい服装でおこしください。
2024年09月01日
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その161
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その161
寄り添う。
夏が終えて、そんな季節、ですね。
寄り添う。
夏が終えて、そんな季節、ですね。
Posted by 明行寺住職 at
11:31
│Comments(0)
2024年09月01日
2024年09月01日
真東から真西へ お彼岸
真東から真西へ お彼岸
お彼岸の太陽
お彼岸の月となりました。
太陽が真東から上り、真西へ沈むすがたに、
浄土をイメージするという中国からの伝統に基づき、
「彼岸会(ひがんえ)」を営んできました。
(諸説があります)
太陽がどのあたりから上ってくるのか、
日頃はあまり意識しませんが、
我が家から見える景色でいえば、
真東は志賀高原のあたり、真西は旭山という小学校の遠足で登る高さの山のあたりかと。
方角で会話する民族
さて、「方角」で思い出したのが、
以前にラジオで聞いた、常に東西南北で会話をする民族の話。
「テーブルの上にある、北側の方のお皿をとって」とか、
「あなたの西側に座っている人」
というような表現をするそうなのです。
音感でいうと絶対音感にあたるのでしょうか、
絶対方向感覚というべきものです。
太陽の位置を基準に感知しているのではないか、と言われます。
オーストラリアの先住民の言語の一つである「グーグ・イミディル語」などが、
それにあたるそうです。
家の中でも外でも、ずうっとそのように会話をするといいます。
日頃、「そこの角を右に曲がって、その次を左へ…」と左右で表現することが多いのですが、
自分の目線にもとづいて表現しています。
僕など、方向感覚をつかむのは苦手で、
これから向かう場所の説明を受けるときは、
前後左右で、それも、その方向に向き直って聞かないと感覚できないのです。
それでいながら、遠くにある場所の説明の時などは、
東西南北で説明してもらった方がわかりよい…。
面倒な性格です。
相対と絶対
前後左右と東西南北。
相対と絶対のようにも思えます。
前後左右なら、近くのものと比べてなのですが、
東西南北は、方角というより大きな基準があってそれに対してなのです。
お彼岸で真東から真西へ太陽が移動する。
その時期に仏教の行事をお勤めする、というのも、
それ自体が仏法を象徴しているようにも思えます。
前後左右なら、常に順番や向きが入れ替わるので、
その場その場のことでしかありません。
対象物同士で比較します。
東西南北も、比べる対象はあるけれども、
基準になる大きなモノサシを常に意識することがそこに加わります。
自分の位置と向き
日常生活に置き換えれば、
前後左右は、目の前にいる他人との比較。
どちらが、より背が高い、足が速い、より稼いだか…。
東西南北は、自分は今どこに居る、どちらに向かっている、
という方向性や、普遍的な価値観の中での位置が加えらえます。
お彼岸を迎えにあたり、「東西南北の会話」を思い出したら、
自分の今の位置や向きが問われる、かもしれません。
お彼岸の太陽
お彼岸の月となりました。
太陽が真東から上り、真西へ沈むすがたに、
浄土をイメージするという中国からの伝統に基づき、
「彼岸会(ひがんえ)」を営んできました。
(諸説があります)
太陽がどのあたりから上ってくるのか、
日頃はあまり意識しませんが、
我が家から見える景色でいえば、
真東は志賀高原のあたり、真西は旭山という小学校の遠足で登る高さの山のあたりかと。
方角で会話する民族
さて、「方角」で思い出したのが、
以前にラジオで聞いた、常に東西南北で会話をする民族の話。
「テーブルの上にある、北側の方のお皿をとって」とか、
「あなたの西側に座っている人」
というような表現をするそうなのです。
音感でいうと絶対音感にあたるのでしょうか、
絶対方向感覚というべきものです。
太陽の位置を基準に感知しているのではないか、と言われます。
オーストラリアの先住民の言語の一つである「グーグ・イミディル語」などが、
それにあたるそうです。
家の中でも外でも、ずうっとそのように会話をするといいます。
日頃、「そこの角を右に曲がって、その次を左へ…」と左右で表現することが多いのですが、
自分の目線にもとづいて表現しています。
僕など、方向感覚をつかむのは苦手で、
これから向かう場所の説明を受けるときは、
前後左右で、それも、その方向に向き直って聞かないと感覚できないのです。
それでいながら、遠くにある場所の説明の時などは、
東西南北で説明してもらった方がわかりよい…。
面倒な性格です。
相対と絶対
前後左右と東西南北。
相対と絶対のようにも思えます。
前後左右なら、近くのものと比べてなのですが、
東西南北は、方角というより大きな基準があってそれに対してなのです。
お彼岸で真東から真西へ太陽が移動する。
その時期に仏教の行事をお勤めする、というのも、
それ自体が仏法を象徴しているようにも思えます。
前後左右なら、常に順番や向きが入れ替わるので、
その場その場のことでしかありません。
対象物同士で比較します。
東西南北も、比べる対象はあるけれども、
基準になる大きなモノサシを常に意識することがそこに加わります。
自分の位置と向き
日常生活に置き換えれば、
前後左右は、目の前にいる他人との比較。
どちらが、より背が高い、足が速い、より稼いだか…。
東西南北は、自分は今どこに居る、どちらに向かっている、
という方向性や、普遍的な価値観の中での位置が加えらえます。
お彼岸を迎えにあたり、「東西南北の会話」を思い出したら、
自分の今の位置や向きが問われる、かもしれません。
2024年07月31日
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その160
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その160
一瞬ドキっとします。
おい、大丈夫か。と言いたくなります。
ちゃんとお腹が動いていました。
暑いです。地面に近いところは尚更でしょう。
環境の変化は猫にはどう影響するのでしょうか。
一瞬ドキっとします。
おい、大丈夫か。と言いたくなります。
ちゃんとお腹が動いていました。
暑いです。地面に近いところは尚更でしょう。
環境の変化は猫にはどう影響するのでしょうか。
2024年07月31日
初めて経験する毎日
初めて経験する毎日
アサガオが懐かしい
鉢植えのアサガオ。
毎年育てているのは、様々な花の模様が楽しみだからですが、
どこか子ども時代に帰ったような気持ちになれるからでもあります。
小学1年生の時、一人ずつ鉢を用意してもらって育てた感激は、
長い時間を経ても思った以上に残っているものです。
芽が出て、双葉が開いて、本葉を付けて、ツルが伸びて…と、
花の咲いた後も、種が実るまで、ワクワクしたものでした。
今の自分は、当時のワクワク感を思い出して、
それが、懐かしい気持ちになるのでしょう。
何となく知っている、ような気がしてしまう
何時の頃からか、「初めて知った」「驚いた」「感激した」、
ということが、ほとんど無くなりました。
人生経験ということなのでしょうか。
あるいは、情報化ということの方が大きいのでしょうか。
なんでもわかってしまう、ような感覚があります。
いつも初めて
本当はそんなハズはないのですが、
「同じような日々」「だいたい見当がつく」というのが現在の毎日。
トラブルが無く過ごしているから、だとすれば、
その点ではさいわいなことです。
それゆえに、目に映るものごとを、当たり前としてしまっている。
見えなくなっていることがたくさんあるのでしょう。
「万劫の初事」という言葉があります。
万であり、劫である、長い長い自分の背景があって、
やっと初めて起こる事が、毎日の出来事です。
むしろ、これからか
さて、「懐かしい」と言えば、
先日、中学校の同窓会の打ち合わせがありました。
「初めて」というのか、「そろそろ始まったもの」がありました。
以前ほど飲めなくなった、身体に痛いところがある、など、
そんなことが話題になる齢になったと、
仲間と会って実感です。
それは、アサガオを見るように、ワクワクするものではないのかもしれませんが、
「今まで分からなかったこと」「初めて経験すること」がたくさん待っているのではないでしょうか。
ちょっと予習も必要なのかもしれませんが、
その辺りが、恩師にも出席いただく大きな意義かもしれません。
アサガオが懐かしい
鉢植えのアサガオ。
毎年育てているのは、様々な花の模様が楽しみだからですが、
どこか子ども時代に帰ったような気持ちになれるからでもあります。
小学1年生の時、一人ずつ鉢を用意してもらって育てた感激は、
長い時間を経ても思った以上に残っているものです。
芽が出て、双葉が開いて、本葉を付けて、ツルが伸びて…と、
花の咲いた後も、種が実るまで、ワクワクしたものでした。
今の自分は、当時のワクワク感を思い出して、
それが、懐かしい気持ちになるのでしょう。
何となく知っている、ような気がしてしまう
何時の頃からか、「初めて知った」「驚いた」「感激した」、
ということが、ほとんど無くなりました。
人生経験ということなのでしょうか。
あるいは、情報化ということの方が大きいのでしょうか。
なんでもわかってしまう、ような感覚があります。
いつも初めて
本当はそんなハズはないのですが、
「同じような日々」「だいたい見当がつく」というのが現在の毎日。
トラブルが無く過ごしているから、だとすれば、
その点ではさいわいなことです。
それゆえに、目に映るものごとを、当たり前としてしまっている。
見えなくなっていることがたくさんあるのでしょう。
「万劫の初事」という言葉があります。
万であり、劫である、長い長い自分の背景があって、
やっと初めて起こる事が、毎日の出来事です。
むしろ、これからか
さて、「懐かしい」と言えば、
先日、中学校の同窓会の打ち合わせがありました。
「初めて」というのか、「そろそろ始まったもの」がありました。
以前ほど飲めなくなった、身体に痛いところがある、など、
そんなことが話題になる齢になったと、
仲間と会って実感です。
それは、アサガオを見るように、ワクワクするものではないのかもしれませんが、
「今まで分からなかったこと」「初めて経験すること」がたくさん待っているのではないでしょうか。
ちょっと予習も必要なのかもしれませんが、
その辺りが、恩師にも出席いただく大きな意義かもしれません。
2024年07月31日
2024年07月01日
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その159
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その159
境内の外ですが、久々に子猫を見かけました。
耳に刻みが入った猫が多くなったので、
子猫が生まれてくることも少なくなりました。
街中のこの環境で生き抜いていくのは大変。
猫が大変な環境は人間も大変、と結びつけたくなります。
境内の外ですが、久々に子猫を見かけました。
耳に刻みが入った猫が多くなったので、
子猫が生まれてくることも少なくなりました。
街中のこの環境で生き抜いていくのは大変。
猫が大変な環境は人間も大変、と結びつけたくなります。
2024年07月01日
「サヨナラができない」時代に
「サヨナラができない」時代に
「サヨナラができない」
「スマホ1台で地球の果てまで「つながり」に追跡される時代は、
「サヨナラできないのが人生だ」なのかも
『朝日新聞』「耕論」2024年6月18日
3人の論者が語っていますが、土井隆義さん(社会学者)は、
「かつて若者の交友関係は、中学、高校、大学へと進学するに連れ、
入れ替わっていくのが常でした。
でも今は違っているようです」と。
近年は生まれた土地の人間関係がずっと維持されて、生活拠点が変わっても
付き合いが消滅することはあまりない。
その理由に、LINEのようなツールの浸透を挙げています。
僕は若者ほどかつての人間関係が続いているわけではないのですが、
この数年、かつての同僚や同級生に「よく会っているような」気がするのです。
実際には会っていないのですが、LINEはもそうですし、フェイスブックやブログを時々見ているためか、
以前の感覚とは変わってきたのだと思います。
出会いへの不安
土井氏は若者の心理として、
「新しい関係を作ることへの不安」を指摘しています。
未来への不安ゆえに、安心な「命綱」としての「これまでの人間関係」を必要としている、と。
新しい環境に身を置いたとき、
かつての友人に会うとほっとしたものです。
環境が変わると、慣れるまでは一時的に「できないこと」が増えるので、
自己肯定感も下がります。
そんなとき、「大丈夫」と思わせてくれる友人はありがたいものでした。
可能性を開く
多くの人と同様、僕も20歳代は自分を取り巻く環境がよく変わりました。
進学、就職、部署の移動、引っ越し…。
その都度、人間関係もまた、一つ一つ作り直したり、新しく築いたり、の繰り返しでした。
「慣れない環境で大変」な印象が強いのですが、
以前の自分を知らない人の中に身を置いて、
これまでとは違う身のふるまいを始められる、という、よい機会でもあったと思います。
このことは、しばらく忘れていました。
今ではずっと、マイペースとばかり、どこへ行っても同じようにふるまいたいと、
少し面倒くさがっている節もあります。
それが、昨年、宗派の地域ブロックの役員人事が任期による交替があって、
新たな組み合わせで仕事に取り組むことになりました。
今更ながら、自分のやり方・ペースを見直す必要が出てきて、
時にはやはり環境の変化も大切だと感じています。
遊行
「自分では気づけない自分の可能性を教えてくれるのは、気心の知れた相手ではなく
新たに出会う他者」と、土井氏は、成長の面での大切さを述べています。
さて、仏教には「遊行」(ゆぎょう)という、なんとも楽しそうな言葉があります。
「遊」には各地を旅するという意味があり、
諸国をまわって仏道を修行することです。
定住すると現状に執着してしまうので、それを避けるためと、
托鉢しての生活なので、ずっと留まることで、その地に負担をかけてしまうことを避けるためでした。
新たな状況に踏み出していくことで、
自らを制限する「きゅうくつさ」から放たれることもあります。
また、現状にこだわると、周囲に負担をかけてしまっているかもしれません。
そんな時、「遊」の字のイメージを持ったら踏み出せるような気がします。
そしてまた、安心して踏み出せるために、
古き友とのつながりも大切と思うのです。
「サヨナラができない」
「スマホ1台で地球の果てまで「つながり」に追跡される時代は、
「サヨナラできないのが人生だ」なのかも
『朝日新聞』「耕論」2024年6月18日
3人の論者が語っていますが、土井隆義さん(社会学者)は、
「かつて若者の交友関係は、中学、高校、大学へと進学するに連れ、
入れ替わっていくのが常でした。
でも今は違っているようです」と。
近年は生まれた土地の人間関係がずっと維持されて、生活拠点が変わっても
付き合いが消滅することはあまりない。
その理由に、LINEのようなツールの浸透を挙げています。
僕は若者ほどかつての人間関係が続いているわけではないのですが、
この数年、かつての同僚や同級生に「よく会っているような」気がするのです。
実際には会っていないのですが、LINEはもそうですし、フェイスブックやブログを時々見ているためか、
以前の感覚とは変わってきたのだと思います。
出会いへの不安
土井氏は若者の心理として、
「新しい関係を作ることへの不安」を指摘しています。
未来への不安ゆえに、安心な「命綱」としての「これまでの人間関係」を必要としている、と。
新しい環境に身を置いたとき、
かつての友人に会うとほっとしたものです。
環境が変わると、慣れるまでは一時的に「できないこと」が増えるので、
自己肯定感も下がります。
そんなとき、「大丈夫」と思わせてくれる友人はありがたいものでした。
可能性を開く
多くの人と同様、僕も20歳代は自分を取り巻く環境がよく変わりました。
進学、就職、部署の移動、引っ越し…。
その都度、人間関係もまた、一つ一つ作り直したり、新しく築いたり、の繰り返しでした。
「慣れない環境で大変」な印象が強いのですが、
以前の自分を知らない人の中に身を置いて、
これまでとは違う身のふるまいを始められる、という、よい機会でもあったと思います。
このことは、しばらく忘れていました。
今ではずっと、マイペースとばかり、どこへ行っても同じようにふるまいたいと、
少し面倒くさがっている節もあります。
それが、昨年、宗派の地域ブロックの役員人事が任期による交替があって、
新たな組み合わせで仕事に取り組むことになりました。
今更ながら、自分のやり方・ペースを見直す必要が出てきて、
時にはやはり環境の変化も大切だと感じています。
遊行
「自分では気づけない自分の可能性を教えてくれるのは、気心の知れた相手ではなく
新たに出会う他者」と、土井氏は、成長の面での大切さを述べています。
さて、仏教には「遊行」(ゆぎょう)という、なんとも楽しそうな言葉があります。
「遊」には各地を旅するという意味があり、
諸国をまわって仏道を修行することです。
定住すると現状に執着してしまうので、それを避けるためと、
托鉢しての生活なので、ずっと留まることで、その地に負担をかけてしまうことを避けるためでした。
新たな状況に踏み出していくことで、
自らを制限する「きゅうくつさ」から放たれることもあります。
また、現状にこだわると、周囲に負担をかけてしまっているかもしれません。
そんな時、「遊」の字のイメージを持ったら踏み出せるような気がします。
そしてまた、安心して踏み出せるために、
古き友とのつながりも大切と思うのです。
2024年07月01日
2024年06月01日
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その158
「境内にやって来る猫たち」に寄せて その158
猫が「伸び」をしていました。
柔らかい身体だけれど、凝ったりするのかなあ。
いや、柔らかいからこそ、じっとし続けているのは、
性にあわないのかな。
僕も身体を伸ばして、もうひと頑張りしようかと。
猫が「伸び」をしていました。
柔らかい身体だけれど、凝ったりするのかなあ。
いや、柔らかいからこそ、じっとし続けているのは、
性にあわないのかな。
僕も身体を伸ばして、もうひと頑張りしようかと。
2024年05月31日
悪気は無いが 想像力もない ~無明とは~
悪気は無いが 想像力もない ~無明とは~
当たり前だけど
「当たり前だけど悪気は無いんだ でも 想像力も無いんだ」
(榛野〈はるの〉なな恵)
この二つが「いっしょになると対処するのが大変なんだ」と、少年はこぼす。
ぬいぐるみが大好きな繊細な少年は、優秀で男らしく育ってほしいと願う両親に、
女の子が送ってくれたテディベアを隠されてしまう。
思いの次元が違う親を責めてもしようがないと諦めつつも、
「僕は僕」というのが自分の備えたい強さだと親に告げる。
コミック『Papa told me』第24巻から
「折々のことば」3099 朝日新聞2024年5月28日(火)
この漫画を連れ合いが持っていて、僕も読んでみたのは10数年前。
わが子もちょうど、かの少年と同じ年頃(小学生)で、
僕は、父親と少年の、どちらにも自分を重ねて読んだのでした。
父親は大学ラグビー部の同窓会に少年を連れていき、
チームを組むスポーツを経験することで、
「運動能力だけでなく、忍耐力や決断力、勇気や協調性、組織や秩序の価値」が身につく、と言います。
それは「将来必ず成功するため」。
「成功」とは「立派な職業を持ち、地位も教養もある」ということ、らしいのです。
対して少年は、言い返します。
「(ラグビーのように)地面や床に引かれた線の中で、
決められたルールや時間に従ってチームのためにみんなで戦うのもすごいと思うけど、
僕はきっと考えちゃうんだ。
どうして線はここに引かれているんだろう。ルールは誰が何のために作ったんだろう。
そしてその線の外側に何かを探しにいきたくなってしまうと思うんだ。
何があるかわからないけど」
僕もまたいつの間にか
僕はこの父親のような運動部出身者でも、大企業の社員(?らしい設定)でもないけれど、
今よりも協調性や「組織や秩序の価値」に重きが置かれた世代であるためか、似たような価値観を持っています。
子どもに言い聞かせた覚えはないけれども、
社会人になるということは、この父親の言葉のとおりだと思っている…。
…と、漫画を読んで気付いた訳です。
「忍耐力や決断力…」は身に着けるべきことですが、
身に着けて、自分はどこへ向かっていくのか。
目指す「成功」にたどり着いたとして、はたして、ほんとうに満ち足りるのだろうかと。
そういうことは、あまり考えたことが無かった…、
いや、考えていたことを、どこかで忘れてしまったのかもしれません。
気が付くと、いつしか、自分の経験してきたことを、
コピーするかのように、わが子や年下の世代に期待していく。
そういう「悪気はないけれど、想像力も無い」自分にギクリとします。
手に入れてなお不安でいる
少年のそんな言葉に、父親は、
「大人でそういうことを言うのはダメだな。お父さんには落ちこぼれの言い訳としか思えないな。
おまえだっていつまでもそんなことを言っていると仲間外れにされるぞ」
と、たしなめます。
かつて就職の時期が近づいてくる頃の僕が、社会に対して持っていた何となく不安なイメージは、
このセリフが言い当てているかも、と思いました。
そして今、かの父親よりももう少し上の年齢になってみて感じるのですが、
かの父親は、一応は「成功」を手に入れながらも、いつも不安を抱えているのだろうなあ、と思うのです。
不安だからこそ、わが子に同じような道を歩んでほしいと、同窓会に連れてきたのでしょう。
自分と異なる道を歩むことは、場合によっては「おちこぼれ」と見なしてきたことが、
「成功した」という思いの裏側から不安を感じさせるのです。
自らの身を自らが受け止められないこと、による不安であり、落ち着かなさ、です。
自身を受け取ることでの確かさ
少年は、応えます。
「平気だよ。僕は変わってるって言われても 弱虫って指さされても 関係ない 僕は僕なんだから。
僕がほしい強さは そういう強さだよ」
この強さは、鍛えて身に着けられるものではありません。
自身を受け取ることができるという「確かさ」です。
無明とは 自分の姿が見えないこと
自分で自分の姿を見ることはできませんが、
自らの影を見ることはできる。
それは、「不安」であったり、「空しさ」であったりします。
これが自分の足元なのだな、これが、自分の動機、本当の理由、隠したい部分…なのだなと、
そんなふうにして、自分を感じ取るのでしょう。
そこから「想像力」ということも始まるのでしょう。
自分の影を見て、知らなかった自分や意識しなかった自分を知る。
他者をも同様に、表面だけを見るのではなく、
見えていない部分があると意識して見ようとする。
言い換えれば、自分の影と他者の影が交差するところに、見えるものを見ようとする、
そんなことではないかと思います。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」
親鸞『教行信証』総序
無明とは「わかったつもりで、わかっていないこと」です。
かの父親を例に言えば、
「成功」や、「成功するため」のことの裏にある、
「自分の不安」を知らない、知ろうとしないこと、です。
少年が「僕は僕」と言えるのは、「僕」を見させてくれる「光」を受けることができたからでしょう。
「僕」を照らしてできた「影」と、他者の影が、その先で交差するところ。
そこに自分の身をうけとれる、確かさ、があります。
少年の言葉に、僕自身の「不安」を見出すことができて、
だから、かの少年とかの父親の両方に自分を重ねて読んだのでした。
当たり前だけど
「当たり前だけど悪気は無いんだ でも 想像力も無いんだ」
(榛野〈はるの〉なな恵)
この二つが「いっしょになると対処するのが大変なんだ」と、少年はこぼす。
ぬいぐるみが大好きな繊細な少年は、優秀で男らしく育ってほしいと願う両親に、
女の子が送ってくれたテディベアを隠されてしまう。
思いの次元が違う親を責めてもしようがないと諦めつつも、
「僕は僕」というのが自分の備えたい強さだと親に告げる。
コミック『Papa told me』第24巻から
「折々のことば」3099 朝日新聞2024年5月28日(火)
この漫画を連れ合いが持っていて、僕も読んでみたのは10数年前。
わが子もちょうど、かの少年と同じ年頃(小学生)で、
僕は、父親と少年の、どちらにも自分を重ねて読んだのでした。
父親は大学ラグビー部の同窓会に少年を連れていき、
チームを組むスポーツを経験することで、
「運動能力だけでなく、忍耐力や決断力、勇気や協調性、組織や秩序の価値」が身につく、と言います。
それは「将来必ず成功するため」。
「成功」とは「立派な職業を持ち、地位も教養もある」ということ、らしいのです。
対して少年は、言い返します。
「(ラグビーのように)地面や床に引かれた線の中で、
決められたルールや時間に従ってチームのためにみんなで戦うのもすごいと思うけど、
僕はきっと考えちゃうんだ。
どうして線はここに引かれているんだろう。ルールは誰が何のために作ったんだろう。
そしてその線の外側に何かを探しにいきたくなってしまうと思うんだ。
何があるかわからないけど」
僕もまたいつの間にか
僕はこの父親のような運動部出身者でも、大企業の社員(?らしい設定)でもないけれど、
今よりも協調性や「組織や秩序の価値」に重きが置かれた世代であるためか、似たような価値観を持っています。
子どもに言い聞かせた覚えはないけれども、
社会人になるということは、この父親の言葉のとおりだと思っている…。
…と、漫画を読んで気付いた訳です。
「忍耐力や決断力…」は身に着けるべきことですが、
身に着けて、自分はどこへ向かっていくのか。
目指す「成功」にたどり着いたとして、はたして、ほんとうに満ち足りるのだろうかと。
そういうことは、あまり考えたことが無かった…、
いや、考えていたことを、どこかで忘れてしまったのかもしれません。
気が付くと、いつしか、自分の経験してきたことを、
コピーするかのように、わが子や年下の世代に期待していく。
そういう「悪気はないけれど、想像力も無い」自分にギクリとします。
手に入れてなお不安でいる
少年のそんな言葉に、父親は、
「大人でそういうことを言うのはダメだな。お父さんには落ちこぼれの言い訳としか思えないな。
おまえだっていつまでもそんなことを言っていると仲間外れにされるぞ」
と、たしなめます。
かつて就職の時期が近づいてくる頃の僕が、社会に対して持っていた何となく不安なイメージは、
このセリフが言い当てているかも、と思いました。
そして今、かの父親よりももう少し上の年齢になってみて感じるのですが、
かの父親は、一応は「成功」を手に入れながらも、いつも不安を抱えているのだろうなあ、と思うのです。
不安だからこそ、わが子に同じような道を歩んでほしいと、同窓会に連れてきたのでしょう。
自分と異なる道を歩むことは、場合によっては「おちこぼれ」と見なしてきたことが、
「成功した」という思いの裏側から不安を感じさせるのです。
自らの身を自らが受け止められないこと、による不安であり、落ち着かなさ、です。
自身を受け取ることでの確かさ
少年は、応えます。
「平気だよ。僕は変わってるって言われても 弱虫って指さされても 関係ない 僕は僕なんだから。
僕がほしい強さは そういう強さだよ」
この強さは、鍛えて身に着けられるものではありません。
自身を受け取ることができるという「確かさ」です。
無明とは 自分の姿が見えないこと
自分で自分の姿を見ることはできませんが、
自らの影を見ることはできる。
それは、「不安」であったり、「空しさ」であったりします。
これが自分の足元なのだな、これが、自分の動機、本当の理由、隠したい部分…なのだなと、
そんなふうにして、自分を感じ取るのでしょう。
そこから「想像力」ということも始まるのでしょう。
自分の影を見て、知らなかった自分や意識しなかった自分を知る。
他者をも同様に、表面だけを見るのではなく、
見えていない部分があると意識して見ようとする。
言い換えれば、自分の影と他者の影が交差するところに、見えるものを見ようとする、
そんなことではないかと思います。
「無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。」
親鸞『教行信証』総序
無明とは「わかったつもりで、わかっていないこと」です。
かの父親を例に言えば、
「成功」や、「成功するため」のことの裏にある、
「自分の不安」を知らない、知ろうとしないこと、です。
少年が「僕は僕」と言えるのは、「僕」を見させてくれる「光」を受けることができたからでしょう。
「僕」を照らしてできた「影」と、他者の影が、その先で交差するところ。
そこに自分の身をうけとれる、確かさ、があります。
少年の言葉に、僕自身の「不安」を見出すことができて、
だから、かの少年とかの父親の両方に自分を重ねて読んだのでした。