2025年02月28日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その167


「境内にやって来る猫たち」に寄せて その167

最近やってくるようになった茶色の猫。
以前、子猫だった頃に何度かやってきた猫のようです。
近所で見かけることがよくありましたが、
だんだんと境内に来ることが増えました。
玄関の前で、様子をうかがいながら、
テリトリーを広げようとしています。



  

Posted by 明行寺住職 at 14:44Comments(0)法話

2025年02月28日

計画錯誤

計画錯誤

「思い通りにいかない」への抵抗感
寺においても、決算処理など事務仕事が多い年度末になりました。
今週中に済まそう、と思っていたら、
思ったよりも時間がかかってしまった、とか、
新たな用事ができた、などで、
来週へ持ち越し、ということが頻発します。


でも、よく考えてみたら、この時期だけではなかったことで、
先月もそうでしたし、年末もそうでした。

どうにかならないものかと嘆きたくなると、
「思い通りにはいかないもの」「自分中心ではない」
という、法話でよく語られるフレーズが頭に浮かびます。

このフレーズ、実は僕は抵抗感があるのです。
僧侶がそれでは困るのかもしれませんが、
なんだか、初めからお手上げしている印象があって、
やりたいこともあきらめなければならないように聞こえるのが、
受け付け難いのです。
ほんとうは、そうではないのでしょうけれどもね。

さて、今週もあっという間だったと嘆きたくなった寝る前のこと。
ふとめくったページに、
「『今月はやたらと忙しいな』と、毎月、思っている。」
と始まる文章に出会って、
同士か理解者を見つけたような思いで読み始めました。
『暮らしの手帖』連載の、荻上チキさんの「みらいめがね」第53回です。

計画錯誤
仕事の量は僕などよりも、きっと何倍もある荻上さんだから、
同士などと言ってはいけないのかもしれませんが、
同じ思い、同じ行動パターンに共感しました。

荻上さんは執筆が仕事ですが、
「書くこと」そのもの以外にしなければならないことを含んでいることを、
見落としてしまって、時間が詰まり、慌てる、とありました。
例えば、編集者との打ち合わせ、資料などの下調べ、
プロフィールの文章や写真のチェック、契約書、請求書の処理…。
こうした工程を見落としてしまう、と。
それは僕もそうなのです。

また、遅刻してしまう。
その原因の一つに、
「多くのタスクを抱えていると、家でやるべきことをギリギリまでやっておこうと思ってしまう」
ということを挙げていましたが、
「時間通りに」(早すぎずに)という思いは、
道の混雑、電車の遅れ、ルートを間違える、などで、
たやすく乱される、とありました。
僕も同様。いつ、急の予定が入るか分からないから、できるだけやっておこう、
と考える訳です。

計画錯誤の具体相で納得 縁起的存在
これを「計画錯誤」というのだそうです。
「物事を完了するのに必要な時間や労力を過小評価してしまい、
 計画よりも長い時間や多くの労力がかかってしまうという現象のこと」
まさしく僕のことですが、
こう言われて、
抵抗感のあったかのフレーズ「自分の思い通りにいかない」が、
多少は受け止められたのです。

仕事のダンドリ一つでもそうですが、
工程が複数あります。
そして背景としての「状況」が無数にあります。
交通渋滞や相手の急用、方針の変更…。
それらを十分に把握できないのが、人間ではないかと。
だから「時間にゆとりをもって」と言われるのですが、
自分の思い(意識)は、狭い。
ごくわずかの部分しか把握できないのです。

「縁起」という言葉は、「一切のものは無数の因(原因)と縁(条件)によって起こる」
という、仏教の中心思想です。
因も縁も、荻上さんから、実例を挙げて具体的に語られると、
ほんとうに「無数」だとよくわかります。

聞く言葉としての「思い通りにいかない」

「思い通りに行かない」を、表現し直してみたらどうかと考えました。

「状況を把握しきれない。
 自分の把握しているごくわずかの範囲では、ものごとに応じられない」

これならば、いくらかは受け入れられるようになりました。
…いや、あやしい。
どこまでも、「思い」は強いのです。

もう一つ、「思い通りにいかない」という、このフレーズ。
自分が言うのでなく、自分が聞いたこと、聞こえたこと、
として受け取るべきものだと思うのです。
「そのとおり『思い通りにいかない」のだな」と感じ取ること。
その意味で、「聞いた言葉」ということです。

はたして僕は、あたふたしなくなるでしょうか。











  

Posted by 明行寺住職 at 14:44Comments(0)法話

2025年02月28日

2月28日の記事

掲示板の言葉 2025年3月

流れゆくものに岐路あり雨水かな

  坂本 緑 「けさの一句」『信濃毎日新聞』2022年1月19日 

  

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2025年01月31日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その166

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その166

たい肥入れにかぶせてあるシートが、
めくれ上がっているので、のぞいてみると、
猫が休んでいました。
風よけにしていたようです。
それでも寒いのでしょう。
けれども、なぜか、見ていて、ほっとするのです。


  

Posted by 明行寺住職 at 17:49Comments(0)法話

2025年01月31日

人を見たら…

人を見たら… 

事件が起きて

 長野駅前で衝撃的な事件が起きたのですが、
 動機など詳細がまだわからないので、
 事件そのものに対しての思いはまだ何とも言えません。
 
 ただ、事件発生直後から容疑者逮捕までの間の人や街の反応に、
 今まで持っていた、私の「街」「世間」をとらえる感覚が揺さぶられました。
 
 犯人が逃走中だったので、
 お店は短縮営業、イベントは中止、予約キャンセル続出、通学途中の心配…。
 外出時には危険を意識しなくてはなりませんでした。
  
 何があるかわからぬ「現代」とはいえ、
 わが街はそんな大ごとは起こらないだろう、
 という思いで過ごしていました。
 今回、例外ではないと、あらためて感じました。
 
 容疑者が確保され、街はホッとした感がありますが、
 私の感覚はこれまでとは少し違ってしまいました。
 どこか警戒するようになりました。
 
人を見たら
 「人を見たら泥棒と思え」とは、
 何時頃からある言葉なのかわかりませんが、
 現代からすれば、まだ穏やかな感じのする言葉です。
 
 以前から、列車に乗ったら置き引きに注意、
 自転車は短時間でも施錠…、
 ということはありましたが、
 身に危険が及ぶまでのことではありませんでした。
 
 知らない人とは話さない、となると、
 子どもなど、学校以外での他人との関わりが、
 ますます無くなってしまうのではないかと、気になります。
 知らない人との対応の仕方が身に着かなくなってしまいます。
 
 人を疑う目で見ることが、今までより強まることは、
 息苦しいことです。

自分も、知らない人からすれば
 警戒するといえば、
 寺の門を開ける時間は、人通りが少なく、
 今の時期はまだ外が暗いです。
 たまに通る人がいると、何かされないかと警戒します。
 それが、相手も私を警戒している様子がわかって、
 妙な気持になりました。

 自分は危険を起こす側ではないことを前提に、
 周囲を警戒していますが、
 私もまた、警戒される者の一人だったのです。

 それに、状況次第では私だって、
 何をしでかすか、わかりません。

 「わがこころのよくて、ころさぬにはあらず。
  また害せじとおもうとも、百人千人をころすこともあるべし」
                    『歎異抄』第13条

 「おこない」には多くの背景や条件があります。
 それゆえに、自分で「このように、しよう」「このようには、すまい」
 と思っていても、そのとおりにならないことがあります。
 
 絶対に自分は人を傷つけない、という人よりも
 自分だって状況によっては人を傷つけるかもしれない、という人の方が
 人を傷つけない、のではないか。
 逆説的ですが、そのように思います。

当面の対応と長いスパンの対応
 防犯対策は、より厳重にせざるを得ません。
 それは当面の対応。
 一方で、おこないは状況次第という人間の理解。
 これは長い長いスパンの対応。

 そんなことを考えさせられたのでした。

  

Posted by 明行寺住職 at 17:48Comments(0)法話

2025年01月31日

掲示板の言葉 2025年2月

掲示板の言葉 2025年2月

自分の芸がまずくみえて来りゃ一人前だ

         四代目古今亭志ん生
         「折々の言葉」『朝日新聞』2024年12月24日 

  

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2024年12月31日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その165

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その165

先日、雪がうっすら積もって以来、
しばらく猫の姿をみかけませんでしたが、
今日はよく晴れた一日で、
猫も日向ぼっこに出てきました。
今日は3匹一緒です。

紅葉をバックに写っているのは、少し前のものです。




  

Posted by 明行寺住職 at 17:24Comments(0)法話

2024年12月31日

いのちの道理

いのちの道理

包装紙は印に沿って
個包装のお菓子。
その包装を開こうと前住職(父)が苦戦しています。
「どっちを引っ張ったら袋が開けるのか。まったく分かりにくい」

文句を言いながら試みていると、家族それぞれが、
「そちらの端に切り口があるでしょ」
「そっちじゃなくて、反対側」
「いや、そこじゃなくて縦の方」
などと言い出します。
余計に分からなくなるのか、
「じゃあ、やってくれ」
となります。

小さな切り口なので見えずらいこともあるのですが、
それ以上に、せっかちであることが、開けることを煩わしく思わせているようです。
若い頃からそうだったようですから。

自分もまた
その様子を横で半ばあきれて見ている僕ですが、
僕も実は似たようなところがあって、
袋の印刷を見ているようでいて、よく見ていないのです。
適当に見て、自分のやり方で変なふうに開けてしまい、
中のお菓子がポロポロとこぼれてしまうことがあります。

また、パソコン作業をしていて、
図や表の作成が分からなくなると、
やり方を検索しますが、
そのサイトでの説明が分かりにくいと、
同じ疑問に応える別のサイトを参照します。

それでも分かりにくく、なかなか進んでいかないことがあるのですが、
ちょっとした操作で、「あっ、できた」と解決できることもよくあります。
後から考えると「なんだ、そんなことか」というような単純なことですが、
説明をよく読んでいない、というのか、
何となく今までの操作方法にどこかでこだわっていて、
解説を受け付けないでいるのです。

パソコンだと、お菓子の包装より高度なことをやっているようですが、
その本質は、どちらもさして変わらないのでしょう。

人生もまた
そんな自分のやり方を坊守(連れ合い)には、
あきれられるのですが、
「子どもの頃からの傾向なんだよねえ」と苦笑いです。
冗談めかして「人生もそうやってるかも」
と自分で言っておきながら、
「そうだとしたら、ずい分、損をしてきたのでは」
と思えてきました。
いや、そうなのでしょう。

「取扱い説明書の無いプレゼント」。
「いのち」について、このように表した先生がおられました。
「説明書」があっても、きちんと読まない、そのとおりにはしない。
だから、とまどい、悩み、時にはもてあます、ということなのですが、
一生懸命やっているつもりで、
先のお菓子の包装紙のようなことをしていたのなら、
もったいないことです。

いのち、人生、にも、「やり方」「扱い方」がある。
それを普通は「生き方」と言いますが、
「生き方」なんて自分の好きでいいじゃない、と思っています。
けれども、先のお菓子の包やパソコン操作となぞらえて考えると、
好き勝手ではもったいない、と思えてきます。

「自分免許ではあぶない」と、
いのち・人生について、おっしゃった先生がおられましたが、
そういうことなのです。

いのちの道理
いのちにも道理・法則があります。
そう言うと、何か特別な「おおせ」があるように感じてしまいますが、
「何事もつながり合って存在する」
「すべては移り変わっていく」
聞けば、ごく当たり前の内容です。

包装紙の例でいえば
切り口を引っ張れば切れる、
切れないところを切ろうとしても切り損なう、なのです。
手数や時間のかかることは、手数や時間をかけるより他はないのですが、
自分のよいようにやって、かえって面倒なことにしてしまいます。

本来のやり方に立ち帰ってこそ、
ことが進んでいくのです。

元旦のお勤めを修正会といいます。
(当明行寺では住職の家族のみで勤めています)
修正とは、そのとおり、
生き方の修正です。
いのちの道理に立ち帰る、軌道修正です。

本年もよろしくお願いします。
  

Posted by 明行寺住職 at 17:23Comments(0)法話

2024年12月31日

掲示板の言葉 2025年1月

掲示板の言葉 2025年1月

避難所の空満天の冬銀河

  江尻無明(住職 石川県七尾市 1941~)『同朋』2024年6月号

  

Posted by 明行寺住職 at 17:19Comments(0)法話

2024年11月30日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その164

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その164

兄弟らしき、その二匹。
並んで何かを見ているようです。
それが僕には見当たらないことがあります。
ぼうっとしているだけか、はたまた。


  

Posted by 明行寺住職 at 20:13Comments(0)法話

2024年11月30日

掲示板の言葉 2024年12月

掲示板の言葉 2024年12月

なにもかも捨てし枯木に希望あり

無京水彦 『朝日俳壇』2023年1月22日

  

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2024年11月30日

出遇ったことを表す…谷川さんにとっての詩とは

出遇ったことを表す…谷川さんにとっての詩とは

小学校の教科書以来
詩人の谷川俊太郎さんが亡くなられて、
子どもの頃からずうっと内面で頼みにしてきた人が、また一人いなくなって、
何と言ったらよいのか、
時代にちょっとした心細さを感じます。


会ったことはないのだけれど、
小学校の教科書の「朝のリレー」以来、
「なんだか面白いけれど、すごい詩を書くおじさん」の印象でした。

当たり前に思っていることを、
「すごい」とか「おもしろい」と感じさせる詩が、
どうして堅物の教科書に載っているのかと、不思議でした。
「頼みにしてきた」とは、
子ども時代の「きゅうくつさ」を解きほぐすものを感じていたからで、
その感覚はそれ以降も、続くものでした。

再会
宗派としても、対談などでお世話になってきた方で、
先輩方の法話にも、しばしば引用されていました。
子ども時代以来の再会をしたような気持ちになりました。
僕も時々、引用させていただいています。

自分で作ったのではない
「言い当てられた」と感じるエピソードを読んだことがあります。
先輩の著書にある話なのですが、
谷川さんに詩を作るときの話をうかがった時のこと…
「自分が作った詩を読んでいて、思わず胸を詰まらせることがある」と、
語られたそうです。
僕はてっきり、谷川さんの詩はすばらしいから、
自分でも感動するのだろう、などと単純に理解していましたが、
その「すばらしさは」、自分が作ったものではなく、
自分が出遇ったこと、なのであって、
そのすばらしさを、言葉を選んで表したのだと、いうことなのです。

また別のところで読んだ話には、
「自分の作った詩なのだけれど、自分の作ったものではない」とも。

そう言われてみれば、そのとおりなのだろうなあ、と思えるのですが、
「自分が作る」意識は、なかなかしぶといものです。

仏法に遇う
詩を作るといえば、親鸞聖人もたくさんの詩「偈」(げ)、
を作られました。
漢文の経典を、親しみやすく七五調の仮名混りの、
当時の流行りの形で、表現されました。

後の世の私たちは、宗祖とあおぐ親鸞聖人ですが、
ご自身は、自分の作った説を説いて聞かせる、という姿勢ではなく、
出遇ったことを仏法に確かめられ、言葉を選んで表されたのです。
仏法に遇う、とはそういうことだと思います。

谷川さんの詩を作る姿勢の話を通して、
親鸞聖人の姿勢を学んだことでした。

法話をするということも同様で、
自分が言って聞かせる、ものではありません。
出遇ったことを仏法に確かめつつ話すものです。
けれども、無意識のうちにも、
いかにうまく話そうか、などと、
できないくせに、思っていたりします。

自分は何に出遇ったのか、という問いを、
谷川さんに教わりました。
  

Posted by 明行寺住職 at 20:12Comments(0)法話

2024年10月31日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その163

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その163

ゴミを拾おうとしゃがんだら、
2匹ともこちらへやってきました。
目の高さを合わせることは大事なようです。
2匹、なんだか、幼馴染のおっちゃんたちが、
散歩の途中で会話している風情であります。
実際、そのとおりで、どちらも同じ時期の生まれ。
僕と会ってからも長いのです。



  

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2024年10月31日

究極の個人情報

究極の個人情報

営業とは「自分を売る」?
「営業とは単に商品を売るのではない。自分を売ることだ」

 私は民間企業での営業の経験はありませんが、よく聞く言葉です。

 「自分を売る」とは、自分を「売り渡す」ようで、ちょっと引っかかる表現に感じましたが、

 「営業とはそういうものか」と感心させられました。
 同時に「『自分を売る』とは、どういう事だろうか」と疑問に思いました。

 先日読んだある冊子に、この言葉が取り上げられており、
 「自分を売る」とはどういう事か、が述べられていました。
 著者は、
 「お客様の心をつかむポイント」は「個人情報」、と言います。
 ありきたりな情報には関心が持たれず、
 その人ならではの情報に惹かれる、ということでした。
 選挙の例を挙げれば、
 町の現状を分析したり、現体制を批判したり、発展策を述べた候補者よりも、
 苦学してきた自身の歩みを述べた候補者が当選したこと。
 それは、候補者の「個人情報」に選挙民が惹かれたのである、
 というものでした。
 伝記やドキュメントなどでは、「その人」の業績もさることながら、
 生い立ちや苦労話に、やはり関心を引かれます。
 営業においては、お客様の知りたいことを話す、
 それが「自分を売る」ということのようです。

 個人情報が残されていない親鸞聖人
 それとは全く対照的なのが親鸞聖人です。
 「個人情報」がほとんど残されていないのです。
 著書は多くありますが、
 自身については、ほとんど語っておられません。
 それなのに、なぜ、惹かれるのか。
 あらためて、疑問に思います。

 どこかで読んだ話に、
 「その小説は、『私』についての説明が少ないから、感情移入できる」
 とありました。
 読書の好みは様々でしょうけれど、
 言われてみれば、そうだなあと思えることです。
 
 親鸞聖人の言葉は、「いつ、こういう出来事があって、こう考えるに至った」
 というような、状況説明はありません。
 緻密な『教行信証』は論文ですが、「著者略歴」のようなものは出てきません。
 多くの人に読まれるものとしては、
 仏事で勤められる『正信偈』があります。
 「偈」(うた)として作られたのですから、
 当然ではありますが、文字数や韻を揃えた詩の形式です。
 一般に有名なのは、親鸞聖人の著書ではなく、「聞き書き」というべき『歎異抄』でしょう。
 こちらも『詩』に近い印象です。
 
 それが、かえって、読む人にとって、
 感情移入しやすいのかもしれません。

 自分に遇う
 「求めている人」が手に取る、ということも大きいでしょう。
 何か明らかにしたいことがあって読む。
 そこには、状況説明や時代背景よりも、
 時間を越えて通じるものが求められます。
 
 もう少し言えば、親鸞聖人のことばを通して、
 読んでいる自分に出遇っていく営みなのです。
 「詩」だからこそ、読んで自分に出遇い得るのではないかと思います。

究極の個人情報
 もしかすると、それは究極の個人情報なのではないか、
 と思えるのです。
 省けるものを省いて、自分の思いを綴る。
 詩とはそういうものではないかと思います。
 親鸞聖人は「偈」という形で詩をあらわしましたが、
 明らかにしたい事柄を、端的に表現したものです。
 ゆえに、引寄せられるのではないでしょうか。
 読み手は引寄せられて、自分に遇うのでしょう。

報恩講
本年も親鸞聖人のご命日のつどいである報恩講(ほうおんこう)の季節となりました。
当明行寺では、11月8日(金)9日(土)にお勤めします。
御参詣をお待ちしております。
 
 
  

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2024年10月31日

掲示板の言葉 2024年11月

掲示板の言葉 2024年11月

ないものを ほしがらんで
あるものを よろこばしてもらおうよのう

松本梶丸 (聞き書き)編集『生命の大地に根を下ろし』樹心社


ないものを ほしがらんで
あるものを よろこばしてもらおうよのう


松本梶丸 (聞き書き)編集『生命の大地に根を下ろし』樹心社
  

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2024年10月31日

掲示板の言葉 2024年11月

掲示板の言葉 2024年11月

ないものを ほしがらんで
あるものを よろこばしてもらおうよのう


                河村フデ


  

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2024年10月03日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その162

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その162

急に涼しくなってきました。
陽だまりの恋しさも、また、急に。



  

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2024年09月30日

掲示板の言葉 2024年10月

掲示板の言葉 2024年10月

柿食ふや 命あまさず 生きよの語

石田波郷(いしだ はきょう 1913~1969)
  

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2024年09月30日

「あの頃」に、置いてきたこと

「あの頃」に、置いてきたこと

同窓会
先日、中学校の学年同窓会があり、
恩師をはじめ、級友だけでなくクラスの垣根を越えて久々の再会をしました。
なつかしいことがたくさんありましたが、 
プログラムに「なつかしアニソン、イントロクイズ」というものがあって、

ピアノ奏者となった同窓生が、イントロを弾いてくれました。

幹事会で、この企画をしていた時に、話の続きで、
「我々世代のヒット曲を集めたサイトもある」
という話になりました。
「〇〇歳代 懐かし ヒット曲」などと検索すると、
そんなサイトがいくつもあって、
聴いている人は結構いました。
「ああ、そういうことで懐かしむ年齢になったなあ」
という結論になりました。
かく言う私も、連れ合いの持っているそんなCDを(これも懐かしい部類に入るのかもしれませんが)、
車で長距離を移動する時に、借りて聴いています。

当時はもう少し先のこと
聴いていて、いつも考えることがあります。
曲が流行った当時、中学・高校生だった自分のことですが、
歌詞にある内容は、自分にはもう少し先のことと思っていました。
いわゆる「大人の世界に近づく」内容で、
10代後半の内容もあるけれども、
まあ、20歳代には経験するであろう、と思える事柄でした。

それが、今、その曲を聴いて、懐かしいとは感じるのだけれども、
自分にはそういう時期はあったのだろうか、と思うのです。
曲のように格好の良いふるまいは自分には縁が無かった、
というところが事実なのでしょう。
ドラマチックなことも起こらず、
気が付いたら、この歳になっていた、というのが実感です。

けれども、格好よくなくとも、
自分なりに「大人になったなあ」という思い出があったかというと、
それらしいことが見当たりません。
泥臭くても、「成長の過程だった」という出来事も、
語る程のものはないのです。
忘れていることも多いので、それは仕方がないのですが、
果たして成長したのか、と、どこか自信なさげになってしまいます。

その年代で向き合わなくてはいけないこと
格好よくできたかどうか、はともかく、
その年齢、その時、でないと味わえないことがあり、
向き合わねばないらないことも、あります。

「10代で向き合わないといけないことを、何となくごまかしていると、
 20代で同じことで悩む、
 20代で向き合うべきことに向き合わないと、
 やはり30代で同じ根っこの悩みに苦しむ」
ある、カウンセラーの言葉です。

言われてみれば、その通りだと感じることがいくつもあります。
例えば、仕事で何かに気を取られて、あるいは、不必要に気遣いをして
ミスをしてしまった、という場合。
子ども時代にも、同じような原因や状況でミスをしていたものだと、
苦々しく思い出されます。

自分の傾向はなかなか直らないものですが、
苦手なことをごまかしていたり、
波風たたぬように自分を抑えていたりすると、
やはり、どこかでそれが表れてくるものです。
向き合わねばならない、自分の何か、と向き合ってこなかったためです。

このままいくか
ごまかせるようで、ごまかせないのが自分です。
同窓会という、年齢を意識させられるイベントがあったからでしょうか、
「さて、自分は何をしてきたのか」とか、
「これからどんなスタイルでいこうか」などと、
妙に考えさせられるここ数日なのです。

「たれの人も後生の一大事を心にかけて」(『御文』)
とは、蓮如上人の言葉です。
「後生」は、「死後」のことですが、
当時の世界観により、「亡くなった後のこと」を語り出すことで、
亡くなる前にすべきことを意識させるものと、私は受け止めています。

また、蓮如上人の教えに触れた方が、
「わかきとき、仏法はたしなめ」(『蓮如上人御一代記聞書』)
と記しておられます。
若い時に縁の無さそうなイメージのある仏教ですが、
若いときにこそ仏法を聞くべく理由は、
「なぜなら、年をとれば、足が弱って教えを聞く場所に行くこともできなくなり、
 大事な教えを聞いていても眠たくなってしまうからです」
 (意訳参考『大谷大学HP』)
と語られています。
高齢で足が弱ることもありますが、
それよりも、
「まだまだ若い」という思いで過ごしているうちにこそ聞くべし、
という面もあるようです。
「まだ、向き合わなくてもいいだろう」と思っているあなたこそ、
向き合うべきことに向き合ってほしい、というメッセージを感じます。

今、引っかかっていること
「何かちがうような気がする」というような、
日頃、自分の中で引っかかっていることがあります。
きちんと向き合うべき事柄なのでしょう。
「あの頃」に自分の中で解決しておくべきことだったのかもしれません。
そんな形で出てきた「置いてきたこと」に、
向き合う時なのか、と思うこの頃です。

  

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2024年09月20日

2024年 報恩講(ほうおんこう)におこしください

2024年 報恩講(ほうおんこう)におこしください

11月8日(金)午後2時~4時
   9日(土)午後1時30分~3時30分
        午後5時~  お斎(食事)は18時半頃~

         
都合のよい回にご出席ください。
参加費は無料です。

報恩講は宗祖親鸞聖人のご命日に、門徒(檀家)がつどい、
聖人の教えによって、この一年間の自分を振り返るるひとときです。

本堂でお勤めをして、聖人のご生涯を描いた掛け軸を住職が解説します。
その後はホールにて法話とお茶の時間です。
「仏教の話は初めて」という方、特に歓迎です。
普段なかなかおいでになれない方、初めての方、門徒(「檀家」)でない方ももお気軽にどうぞ。

報恩講は浄土真宗のどのお寺でも、おこなわれる、もっとも大切な行事です。
明行寺の「本山」である、京都・東本願寺では11月21日から、
祥月ご命日である28日まで法要が勤められます。
  

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