2012年01月31日

出会いは別れの始まり

出会いは別れの始まり

私と同じく寺の副住職をしている友人の結婚披露宴に出席しました。

時々、「お寺の人は、どこで結婚式を挙げるの?」
「キリスト教の教会ではないだろうけど、でも神前式でもないよねえ?」
などと尋ねられます。
あまりメジャーではないので、すぐに頭に浮かばないようですが、出会いは別れの始まり
当然ながらお寺で仏前結婚式を行います。
お寺でなくとも、ホテルで、掛軸のご本尊をお掛けして勤めることもあります。
最近、長野では善光寺さんで仏前結婚式を挙げる人が増えてきています。
もっと広まってほしいものです。

さて、その披露宴では仲人が、私やその友人が教区の研修でご指導いただいた方でした。
新郎新婦の紹介のあと、仲人からの挨拶があるのですが、
どんな話になるのか、楽しみでもありました。

「こういう言葉は、結婚披露宴では、ふつうは言わないのですが…」と始まり、
ではどんな言葉かと、思っていると、
「出会いは別れの始まり、です」と。
たしかに、ふつう言わないですよね。
けれども、仏前結婚だと、なぜか納得してしまう感覚があるのです。
お坊さんだから、お別れの儀式が専門だから?
いや、そういうことだけではなくて、
仲人の方もおっしゃっていましたが、
「それが本当のこと」だから、なのでしょうね。

「別れ」もそうですが、私たちは、不都合なものを、
できるだけ見ないように、口に出さないようにして、意識から遠ざけて生活しています。
しかし、口に出さないようにする、ということは逆に言えば、
いつも心の奥で気にしている、ということの裏返しなのでしょう。

だから時には、あえて「別れ」を意識してみると、
目の前が急にいとおしく思えてきます。

ずうっとこのまま、いつまでも変わらずにそこにいる、
という感覚だと、それは「当たり前」になってしまいます。
例えば私などは、
普段寺で事務仕事をしている時、
学校から帰ってきた子どもがうるさくすると、
「もう帰ってきたのか…うるさいのが…」
と思ってしまうのですが、
子どもと久々よく遊んだ後などは、ふと、
「ああ、これから子どもが成長したら、もう、こういうこともなくなるのだな」と、
子どものはしゃぎぶりがいとおしく思えたりします。
あるいは、子どものそれとは別の意味でうるさく感じる親については、
夜明け前に目が覚めた時など、ふと、これから一緒に過ごせる時間を考えたりします。

そんなときは、日々が「変わりばえの無い、当たり前」ではなくて、
「かけがえの無い時間」になります。

結婚して、ともにすごしていく相手と、
一番最初に、いつかは別れるときが来ると、お互いに確かめ合えること。
良い意味で、ちょっと緊張感も加わるかもしれませんね。
この、少しの緊張感、が大切なのだろうなあ、と、
自戒?も含めて思うことです。




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Posted by 明行寺住職 at 16:24│Comments(0)法話
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