2011年01月31日

列車内のお互い様

列車内のお互い様列車内のお互い様
「新幹線に乗ったら、話し好きの女性グループがいないように願う」と始まる新聞投書がありました。
おしゃべりは控えてほしい、という意見です。
何も女性ばかりではなく、男性も同じです。
私も出張で利用するときは、資料に目を通したり、アイデアを書き出したりするまとまった時間なので、
近くでおしゃべりが始まると、参ってしまいます。
同感しつつ読みました。

 ところが数日して、今度は「新幹線はお互い様の精神で」と、先の投書に対しての反論が載っていました。
いわく「自分も一人の時は静かに過ごしたいが、グループの人もその人なりの旅を楽しんでいる。
様々な人が様々な目的で乗り合わせているのが公共の乗り物ではないか」というものでした。
 ああ、そうだったな。と思いました。
 おしゃべりもまた電車での過ごし方の一つだったことを忘れていました。
そしてまた、乗客同士ほとんど関わりが無くなったことをあらためて感じました。

自分の目的のために利用する…それは当然ですが、それだけで終えてしまうのです。
何も電車の旅に限らず、そういうスタイルが今の世の中なのだと今更ながら見えたことです。
近所付き合い、友達付き合い、親戚付き合い…いずれも自分の目的を大切に、
できれば「余計」なことに煩わされないように、という付き合い方です。
自分や自分たちの時間は大切にしたいものですが、
反面、「たまたま電車で隣に座った人がこんな人で…」という、面白おかしなことに出会うことも減りました。
学生時代に、鈍行のみ利用できる「青春18切符」で京都から長野まで帰ってきましたが、
私は気が弱そうに見えるのか、座席が混んでくると何故か私の隣や向かいに座る人が多いのです。
そのため、向かいの席のおばあさんから「皮むいちゃったけど大きいから半分どうぞ」とミカンをいただいたり、
ワイワイやってる親戚同士らしいグループからは「お詫びのしるし」とお茶をいただいたりしていました。
会話が面白くてついつい盗み聞きしてしまったこともありましたが、
それを聞きながら「世間とはそういうものか」と、ヘンなところで社会勉強になっていたのでした。
もちろん、時には相手が煩わしく「早く先に降りてくれないかな」と思いながらのこともありましたが、
そんな珍道中は、あとで話のネタにできました。

それがそのまま、珍道中でありながら、マナーを身に付けることにつながっていたとも思います。
イヤな目に合わされたら、今度は自分も気をつけるということが、
他の場面でも、これ以上は言わない、とか、このことは触れないでおく、とか。
逆に、こう気遣ってくれるとありがたいとか、そういうことにつながります。
やはり、いろんな巡り合せがあってこそ、お互い様がわかるのでしょう。

さて、最近、どういうわけか、私の隣へ座る人が少ないのです。
他の席から埋まっていき、残っていたから仕方なく隣に来るような感じなのです。
特に帰りの車中。
缶ビールを片手にしていたりする、
すっかり中年のオヤジに成り果てたからでしょうか。
あるいは、近寄りがたい(近寄ったらうっとおしい)雰囲気なのでしょうか。
これはこれで、また、考えてしまう…勝手なものです。

「自分の見方でしかなかったなあ、自分の立場でしか見れなかったなあ」
という気付きを持って向き合える人間関係が築けるとき、
それを「同朋」(どうぼう)と言います。






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Posted by 明行寺住職 at 16:35│Comments(0)法話
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