2010年11月30日

ワインが「わかる・わからない」?

ワインが「わかる・わからない」?

この歳になって、初めてボジョレーヌーボーを味わいました。ワインが「わかる・わからない」?
面倒くさがりで、話題になっていても自分で行動しない私が味わうことができたのは、
お店の方がサービスとして出してくれたからでした。

それにしても、ワインというと、そのおいしさが「わかる・わからない」という話になります。
日本酒やビール、焼酎ではそんなことはなくて、
オレはこれが好き、これがうまい、と堂々と?言えるのに、ことワインとなると別。
「これは『おいしい』ってことになるのかねえ…?」と自信なさげになります。

私もそうなのです。
自分がおいしければ、それでいいじゃないか、と思うのですが、
どうにも、おいしさのモノサシがあるような気がして、
それを得てから初めて語れるような、そんな感覚があるのです。

あるときそんなことをお店の方にしましたら、
「いや、それはその方の素直な感覚でいいんですよ」とのことでした。
そして、どうしてワインが「難しい」と思われるのか、その理由を語ってくれました。
つまりは、ワインが日本に「高級品」として入ってきたので、そのイメージがまだ強いこと。
あまり身近なものではなかった時代が長く、なじみになったのが1980年代後半から、
それが、いまだに難しいイメージをつくっている、ということでした。

日本への入り方、長らく身近でなかった…、といえば、
仏教にも同じような事情があると感じます。

「538年」「百済から」を覚えておられますか。
当時、仏教は国を治めるための手段として受け入れられたのでした。
その後長らく、人々には縁遠いものであり、
民衆に広まるのは鎌倉時代まで待たねばなりませんでした。

それが、現在も「お寺の敷居が高い」とされる原因とはそのままには言えませんが、
やはり「入り方」の影響は大きいと思います。
仏教国といわれるタイをはじめ、東南アジア諸国での民衆の仏教への信頼や親しみは、
日本とは随分違います。
日本国内でも、浄土真宗なら、その門徒の多い地方、例えば北陸・愛知などは、
他の地域とは親しみの度合いが違います。

「仏教は難しい」「お寺の集まりへ行くのは、もうすこし勉強してから」
「修行してない私らには、わからない」
よく言われます。
でも、率直な感想で、「よくわかった」「難しかった」、時には「反発したくなった」だって、
いいと思うのです。
住職や講師の話を聞いて、「こう思わなきゃいけない」なんてきまりはないのですから。

お寺の側も、もっと仏教の教えの中身そのものを伝えないといけない。
ワインのラベルだけ見ていても味わえないのと同じで、
お経の中身に触れていただける工夫をしないと、…私もなかなかできていません。
葬儀や法事で、「ありがたいお経を読んでいただき」なんていわれますが、
いいワインを頂戴しました、といってそのまま置いているようなものです。

まずは飲んでみる、まずは触れてみる。
どちらもおんなじですね。


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Posted by 明行寺住職 at 16:30│Comments(0)法話
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