2010年10月31日
失敗の研究と仏法

官制ミスによりニアミスを起こしたとして、
管制官が有罪確定となりました。
10メートル差で飛行機がすれ違ったというのだから、
あとちょっとで大惨事だったのですが、
それにしても、
指示一つで何百人もの命を左右する仕事に従事している管制官の職務の重圧さは、
想像し難いものです。
私、そそっかしい方で、よくミスをやらかします。
ヒューマンエラー、というと何やら格好がつきますが、
おっちょこちょいといった方がふさわしい。
そのためか、失敗や事故のの原因を探る話、
それも人的なミスの話にはかねてから関心がありました。
ミスをした後で、相手を納得させる言い訳ができないものかと、
そんな思いにかられることが多かったですから。
畑村洋太郎さんが、「失敗」についての研究をしていますが、
著書を見つけたときは、そそっかしい私の味方が現われたようで、
うれしくなってしまった程です。
畑村さんをはじめ「人為的ミス」に関する研究の本が多くでてきました。
それらによると、近年は、技術の進歩により、ボタン一つで操作できる反面、
操作ミスの影響が大きくなってきている、といいます。
同じ呼び間違えでも、
私が人の名前を呼び間違えたら笑われて終わるだけですが、
飛行機の便名を間違えたら、大事故です。
ミスそのものはあまり差がないものですが、
結果が大きくなるのが現代の技術の課題でもあると指摘されています。
また、操作ミスは、むしろ、操作を覚えることとウラオモテの関係にあるようです。
先日のNHK「クローズアップ現代」では、
自動車のアクセルとブレーキの踏み間違いについて取り上げていました。
いつも行う動作を無意識にできるようになることは、
スポーツでいえば上達にあたる、つまり「体で覚える」ということなのですが、
ブレーキを踏むべくときに、いつものアクセルを踏んでしまうのも、
同じしくみなのだそうです。
番組では他にも、運転中にストレスを与えるとすぐさまミスが増えること、などを、
挙げていました。
私たちの判断や行動がいかに様々な影響を受けるということがわかります。
自分ほど当てにならないものはない、と仏教ではいいます。
私たちの「行ない」は、まわりの「事実」よりも自分の「思い」の方が優先してしまうのです。
それは、自分がだらしないから…、もっと訓練すれば向上する、ととらえがちですが、
そうではないでしょう。
あれだけ訓練を積んだ管制官すらミスをする。
つまり、状況・環境の影響を受けるのが人間なのだということでしょう。
身も心も、常に環境に煩わされる我々の身のありさまを、煩悩の身、といいます。
それらによると、近年は、技術の進歩により、ボタン一つで操作できる反面、
操作ミスの影響が大きくなってきている、といいます。
同じ呼び間違えでも、
私が人の名前を呼び間違えたら笑われて終わるだけですが、
飛行機の便名を間違えたら、大事故です。
ミスそのものはあまり差がないものですが、
結果が大きくなるのが現代の技術の課題でもあると指摘されています。
また、操作ミスは、むしろ、操作を覚えることとウラオモテの関係にあるようです。
先日のNHK「クローズアップ現代」では、
自動車のアクセルとブレーキの踏み間違いについて取り上げていました。
いつも行う動作を無意識にできるようになることは、
スポーツでいえば上達にあたる、つまり「体で覚える」ということなのですが、
ブレーキを踏むべくときに、いつものアクセルを踏んでしまうのも、
同じしくみなのだそうです。
番組では他にも、運転中にストレスを与えるとすぐさまミスが増えること、などを、
挙げていました。
私たちの判断や行動がいかに様々な影響を受けるということがわかります。
自分ほど当てにならないものはない、と仏教ではいいます。
私たちの「行ない」は、まわりの「事実」よりも自分の「思い」の方が優先してしまうのです。
それは、自分がだらしないから…、もっと訓練すれば向上する、ととらえがちですが、
そうではないでしょう。
あれだけ訓練を積んだ管制官すらミスをする。
つまり、状況・環境の影響を受けるのが人間なのだということでしょう。
身も心も、常に環境に煩わされる我々の身のありさまを、煩悩の身、といいます。
Posted by 明行寺住職 at 17:38│Comments(0)
│法話
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