2010年05月31日
エジプト展 「死後の世界」は「今の心境」?

信濃美術館で開催されていたエジプト展が5月末で終了しましたが、
先日、私も子どもを連れて見に行ってきました。
古代エジプトの神々の像や、ミイラを製作するときの器具、
ミイラの納められる木棺、など、国立カイロ美術館の所蔵品が展示され、
また、吉村作治氏の取り組みが詳しく紹介されていました。
エジプト展が始まると聞いた当初は、
「珍しいものが見れそうだ…」という程度にしか思っていませんでしたが、
先に行ってきた同年代の住職から「あれは、よく見ておけ。僕らの仕事と関係が深いぞ」
と言われ、これは、ちゃんと見なくては、と出かけました。
古代の文明の神秘さも、さることながら、
「死後をどうとらえているのか」をよく見てこい、ということなのです。
会場の信濃美術館に行くと、展示のテーマは「古代エジプトの死生観」であると書いてあって、
あらためて、そうたしかめたことでした。
ピラミッド・ミイラ・神々…。
いずれも、古代エジプトの人々の考えた、「死後の世界」です。
人が亡くなった後、「生命の元」と「人格の元」と「肉体」は別々となる…というものです。
古代の人はこんなふうに死後を考えていたととらえると、
ついつい「昔の人だから…」「非科学的」「実在するはずない」ということで済ませてしまいます。
しかし、死に対して「どんなイメージを持つか」というとらえ方をすると、
「死んだらどうなるか」という関心の持ち方とは違い、
「私にとって死をどう受け止めるか」ということに関心の向きが変わってくるのです。
そういう視点で見るエジプト展は、当時の人々の「死に対するイメージ」を知る、よい機会でした。
詳細に描かれた死後の世界の絵から、古代エジプトの人々の死のイメージが伝わってきます。
王や王妃が死後に神となって舟で旅を続ける、この舟の船乗りになる(…だったか?)、
それが当時の人々の死後のイメージだそうですが、
どうして舟なのか。
それは、やはり、ナイル河という、交通をはじめ生活に深く関わりのある河を見てすごす人々ゆえ、
こうしたイメージが作られたのだろう、と解説にありました。
これを見て、あらためて感じたことですが、
死んで後の世界は、現在生活している環境の延長にイメージされるものということです。
ところ変われば、また、死後のイメージも変わる。
心境にも大きく影響されるでしょう。
死後のイメージは、いわば、現在の生活環境や心境を鏡のように映しているともいえます。
展示には、夫婦・親子それぞれのミイラを納める木棺がありましたが、
死後にも夫婦・親子ともにすごしたい思いが表されているものですね。
最近ではどうでしょう。
「一緒のお墓に入りたくない…」なんてことがたまにあるそうですが、
生きているときの、現在の状況や心境が、死後のイメージになっていることがよくわかります。
ゆえに、死にどんなイメージを持つのかどうかは、現在の生き方が問われる大切なことです。
たとえば、「死んだら楽になる」イメージであるなら現在は、
「苦しい。逃れたい」状況ということでしょうか。
逆に「死んだら、全てが終わり」なら現在は、
「手放したくないものが、いっぱい。まだまだ、ほしい」
という思いで生きているのかもしれません。
「死んでどこへ行くのか」も同様です。
「死んだら幸せな世界に行ける」とイメージしているなら、
現在の毎日に満足しているのかどうか、ちょっと見直しが必要ではないでしょうか。
「また、次の人生が始まる」なら、
何かを先送りしようとしていないか、考えたほうがいいかもしれません。
さて、どんなイメージを持っていますか。
イメージの持ち方が、逆に、現在の生き方に影響を与えてくる、ということもあります。
そういう意味でも、死後にどんなイメージを持つのかは大切なことです。
仏教で、死後をどう説明するか、微妙な言いまわしであるのは、
これ、やはり先に述べたとおり、現在の生き方にも関わるデリケートなことだからです。
では仏教でいう死後のイメージを、私なりの言い表し方で言えば、
「落ち着くべきところへ、落ち着くこと」
なのですが、いかがでしょう。
いずれも、古代エジプトの人々の考えた、「死後の世界」です。
人が亡くなった後、「生命の元」と「人格の元」と「肉体」は別々となる…というものです。
古代の人はこんなふうに死後を考えていたととらえると、
ついつい「昔の人だから…」「非科学的」「実在するはずない」ということで済ませてしまいます。
しかし、死に対して「どんなイメージを持つか」というとらえ方をすると、
「死んだらどうなるか」という関心の持ち方とは違い、
「私にとって死をどう受け止めるか」ということに関心の向きが変わってくるのです。
そういう視点で見るエジプト展は、当時の人々の「死に対するイメージ」を知る、よい機会でした。
詳細に描かれた死後の世界の絵から、古代エジプトの人々の死のイメージが伝わってきます。
王や王妃が死後に神となって舟で旅を続ける、この舟の船乗りになる(…だったか?)、
それが当時の人々の死後のイメージだそうですが、
どうして舟なのか。
それは、やはり、ナイル河という、交通をはじめ生活に深く関わりのある河を見てすごす人々ゆえ、
こうしたイメージが作られたのだろう、と解説にありました。
これを見て、あらためて感じたことですが、
死んで後の世界は、現在生活している環境の延長にイメージされるものということです。
ところ変われば、また、死後のイメージも変わる。
心境にも大きく影響されるでしょう。
死後のイメージは、いわば、現在の生活環境や心境を鏡のように映しているともいえます。
展示には、夫婦・親子それぞれのミイラを納める木棺がありましたが、
死後にも夫婦・親子ともにすごしたい思いが表されているものですね。
最近ではどうでしょう。
「一緒のお墓に入りたくない…」なんてことがたまにあるそうですが、
生きているときの、現在の状況や心境が、死後のイメージになっていることがよくわかります。
ゆえに、死にどんなイメージを持つのかどうかは、現在の生き方が問われる大切なことです。
たとえば、「死んだら楽になる」イメージであるなら現在は、
「苦しい。逃れたい」状況ということでしょうか。
逆に「死んだら、全てが終わり」なら現在は、
「手放したくないものが、いっぱい。まだまだ、ほしい」
という思いで生きているのかもしれません。
「死んでどこへ行くのか」も同様です。
「死んだら幸せな世界に行ける」とイメージしているなら、
現在の毎日に満足しているのかどうか、ちょっと見直しが必要ではないでしょうか。
「また、次の人生が始まる」なら、
何かを先送りしようとしていないか、考えたほうがいいかもしれません。
さて、どんなイメージを持っていますか。
イメージの持ち方が、逆に、現在の生き方に影響を与えてくる、ということもあります。
そういう意味でも、死後にどんなイメージを持つのかは大切なことです。
仏教で、死後をどう説明するか、微妙な言いまわしであるのは、
これ、やはり先に述べたとおり、現在の生き方にも関わるデリケートなことだからです。
では仏教でいう死後のイメージを、私なりの言い表し方で言えば、
「落ち着くべきところへ、落ち着くこと」
なのですが、いかがでしょう。
Posted by 明行寺住職 at 09:01│Comments(0)
│法話
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