2010年02月28日

遠くへ行けた時代 歴史ドラマに羨ましさを見る

遠くへ行けた時代 歴史ドラマに羨ましさを見る

このところの歴史ドラマ、「竜馬伝」も「坂の上の雲」も、
どちらも、見ていてワクワクする感じを覚えます。遠くへ行けた時代 歴史ドラマに羨ましさを見る
時代の変わり目であり、大きな仕事を成し遂げる、ということもありますが、
私が最も冒険心らしきものを掻き立てられるのは、「遠くへ旅立つ」というところです。

どちらの番組も、主人公やその周りの者が、
四国から江戸・東京、あるいは京都へ出てゆくわけですが、
当時としては、およそ外国へ行くのに等しい感覚だったのでしょう。
旅立つ方も、見送る方も、覚悟を決めています。

国内でも、ところ変われば、言葉も習慣も大きく異なった時代ですから、
他の土地へ行くことは、得るものも大きかったと想像できます。
そしてまた、人との出遇いも大きかったのだと思います。

二度と会えない、見ることができない、そんなことが多かっただけに、
目の前にいる人、起きていること、を見るときに、
一種の緊張感があったのではないでしょうか。
記憶も鮮明に残ったと思われます。
「しっかり会う、しっかり別れる」ということができていた時代と見ることもできます。

一方、人に会えない時や、彼の地を思うときに、
自分の中で、時間をかけて、「腑に落ちる」ものがあったことでしょう。

また、その土地でないと手に入らないものの「ありがたみ」や、
見聞きしたことの土産話は面白く聞けたと思います。

簡単に行き来ができて、手に入れられるようになり、
ワクワクする感覚が薄れてしまったのは、ここ数年来でも変化を感じることです。
最も大きなことは、出遇いの重みが無くなったことではないでしょうか。

以前、ある僧侶の方が、
「こんなに早くていいのだろうか…」という、谷川俊太郎さんの詩を紹介していましたが、
それは、スピードに心がついていかない、とまどい、なのでしょう。
人に顔を会わせ、遠くの地に移動することはできても、
「心の出来事」としては、必ずしも、「出遇い」や「たどり着く」ことは、
できていないのかもしれません。

歴史ドラマの、旅立ちのシーンにあこがれるのは、
そんな「心の出来事」としての出遇いを、欲していることかもしれません。

遠くへ行く、その憧れは、遠い場所への移動、距離の大きさ、ということもありますが、
その奥底には、「時間をかけたい」という欲求があると、私は思います。
人や出来事との出遇いを、時間にゆとりをもって、自分の中で整理したい、確かめたい。
生活は不便な昔の時代でありながら、どこかあこがれるのは、
そんなことがあると思うのです。


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Posted by 明行寺住職 at 19:20│Comments(0)法話
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