2009年08月31日
その日、私は何をしていたのだったっけ…
その日、私は何をしていたのだったっけ…
「その日、私は何をしていたのだったっけ…」
勉強がはかどらないまま、短い長野の夏休みの終わりを前に焦っていたら、
テレビで速報が入ったのは、御巣鷹に日航機が墜落した日。
朝、寝坊して布団からゴソゴソ這い出して、小言を言われながら朝飯を食べようとしたら、
妹にテレビを見てと言われて知った、昭和の最後の日。
「問い合わせが殺到して、全国の関係窓口はパニックになるだろう」とマスコミは言うので、
「こんな日に当番かよ」とビビりながら出勤したら、その日は土曜日で、とても静かだった介護保険制度スタートの日。
こういう大きな出来事があったときや節目の日に、どうもボクは間が抜けているというか、間が悪いというか…。
別にその日に限ったことではないのですが、
パッとしない思い出とともに、時代の節目を迎えるようです。
「『09年8月30日』は、後世、歴史年表に太い活字で特筆されるだろう」(「朝日新聞」)
という日で、「日本憲政史上の大事件」とも書かれていますが…、

「その日、私は何をしていたのだったっけ…」
勉強がはかどらないまま、短い長野の夏休みの終わりを前に焦っていたら、
テレビで速報が入ったのは、御巣鷹に日航機が墜落した日。
朝、寝坊して布団からゴソゴソ這い出して、小言を言われながら朝飯を食べようとしたら、
妹にテレビを見てと言われて知った、昭和の最後の日。
「問い合わせが殺到して、全国の関係窓口はパニックになるだろう」とマスコミは言うので、
「こんな日に当番かよ」とビビりながら出勤したら、その日は土曜日で、とても静かだった介護保険制度スタートの日。
こういう大きな出来事があったときや節目の日に、どうもボクは間が抜けているというか、間が悪いというか…。
別にその日に限ったことではないのですが、
パッとしない思い出とともに、時代の節目を迎えるようです。
「『09年8月30日』は、後世、歴史年表に太い活字で特筆されるだろう」(「朝日新聞」)
という日で、「日本憲政史上の大事件」とも書かれていますが…、
一方で私の今日(8月31日)もまた例外ではなく、
他府県の夏休みの長さをうらやんでウダウダ言いながら支度をする子ども2人を、
妻と共にセカセカと急かしながら学校・幼稚園に登校登園させて始まりました。
台風が近づいて曇った天気です。
日常生活は、世間の大きな出来事とは一見関係なく続きます。
けれども、うんと年月が経って、その日を思い出したときに、自分も時代とは無関係ではないな、と感じるのもまた事実です。
大きな時代の流れの中で、私や家族や仕事のことで、日々小さな小さな判断を繰り返しているのが私たちです。
小さな判断だからこそ、時代の中で影響を受けているのですが、その時にはわかりにくいものです。
自分の判断も世間の影響をうける、そんな私たちの身のありようこそ「煩悩の身」と、親鸞聖人は受け止められました。
心の中の邪(よこしま)な部分というのではありません。
世の中が変わったから、人々の考えも変わったのか、
人々の考えも変わったから、世の中が変わったのか、
これはどちらなのか、よくわかりません。
ただ、自分がその日何をしていたのか、これは覚えておこうと思います。
相変わらずウダウダあるいはセカセカやっていたことの続きに、
何を考えていたのかを、案外と続けて思い出してくるものです。
どうして自分は「そう感じたのか」「そう判断したのか」。
このことが「これから」を考えるときに大切だと思うからです。
他府県の夏休みの長さをうらやんでウダウダ言いながら支度をする子ども2人を、
妻と共にセカセカと急かしながら学校・幼稚園に登校登園させて始まりました。
台風が近づいて曇った天気です。
日常生活は、世間の大きな出来事とは一見関係なく続きます。
けれども、うんと年月が経って、その日を思い出したときに、自分も時代とは無関係ではないな、と感じるのもまた事実です。
大きな時代の流れの中で、私や家族や仕事のことで、日々小さな小さな判断を繰り返しているのが私たちです。
小さな判断だからこそ、時代の中で影響を受けているのですが、その時にはわかりにくいものです。
自分の判断も世間の影響をうける、そんな私たちの身のありようこそ「煩悩の身」と、親鸞聖人は受け止められました。
心の中の邪(よこしま)な部分というのではありません。
世の中が変わったから、人々の考えも変わったのか、
人々の考えも変わったから、世の中が変わったのか、
これはどちらなのか、よくわかりません。
ただ、自分がその日何をしていたのか、これは覚えておこうと思います。
相変わらずウダウダあるいはセカセカやっていたことの続きに、
何を考えていたのかを、案外と続けて思い出してくるものです。
どうして自分は「そう感じたのか」「そう判断したのか」。
このことが「これから」を考えるときに大切だと思うからです。
Posted by 明行寺住職 at 10:44│Comments(0)
│法話
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