2024年07月01日

「サヨナラができない」時代に

「サヨナラができない」時代に

「サヨナラができない」

「スマホ1台で地球の果てまで「つながり」に追跡される時代は、
「サヨナラできないのが人生だ」なのかも
              『朝日新聞』「耕論」2024年6月18日 「サヨナラができない」時代に


3人の論者が語っていますが、土井隆義さん(社会学者)は、
「かつて若者の交友関係は、中学、高校、大学へと進学するに連れ、
 入れ替わっていくのが常でした。
でも今は違っているようです」と。
近年は生まれた土地の人間関係がずっと維持されて、生活拠点が変わっても
付き合いが消滅することはあまりない。
その理由に、LINEのようなツールの浸透を挙げています。

 僕は若者ほどかつての人間関係が続いているわけではないのですが、
この数年、かつての同僚や同級生に「よく会っているような」気がするのです。
実際には会っていないのですが、LINEはもそうですし、フェイスブックやブログを時々見ているためか、
以前の感覚とは変わってきたのだと思います。

出会いへの不安
土井氏は若者の心理として、
「新しい関係を作ることへの不安」を指摘しています。
未来への不安ゆえに、安心な「命綱」としての「これまでの人間関係」を必要としている、と。

新しい環境に身を置いたとき、
かつての友人に会うとほっとしたものです。
環境が変わると、慣れるまでは一時的に「できないこと」が増えるので、
自己肯定感も下がります。
そんなとき、「大丈夫」と思わせてくれる友人はありがたいものでした。

可能性を開く
多くの人と同様、僕も20歳代は自分を取り巻く環境がよく変わりました。
進学、就職、部署の移動、引っ越し…。
その都度、人間関係もまた、一つ一つ作り直したり、新しく築いたり、の繰り返しでした。

「慣れない環境で大変」な印象が強いのですが、
以前の自分を知らない人の中に身を置いて、
これまでとは違う身のふるまいを始められる、という、よい機会でもあったと思います。
このことは、しばらく忘れていました。
今ではずっと、マイペースとばかり、どこへ行っても同じようにふるまいたいと、
少し面倒くさがっている節もあります。

それが、昨年、宗派の地域ブロックの役員人事が任期による交替があって、
新たな組み合わせで仕事に取り組むことになりました。
今更ながら、自分のやり方・ペースを見直す必要が出てきて、
時にはやはり環境の変化も大切だと感じています。

遊行

「自分では気づけない自分の可能性を教えてくれるのは、気心の知れた相手ではなく
 新たに出会う他者」と、土井氏は、成長の面での大切さを述べています。

 さて、仏教には「遊行」(ゆぎょう)という、なんとも楽しそうな言葉があります。
「遊」には各地を旅するという意味があり、
 諸国をまわって仏道を修行することです。
 定住すると現状に執着してしまうので、それを避けるためと、
 托鉢しての生活なので、ずっと留まることで、その地に負担をかけてしまうことを避けるためでした。
 
 新たな状況に踏み出していくことで、
 自らを制限する「きゅうくつさ」から放たれることもあります。
 また、現状にこだわると、周囲に負担をかけてしまっているかもしれません。
 そんな時、「遊」の字のイメージを持ったら踏み出せるような気がします。 

 そしてまた、安心して踏み出せるために、
 古き友とのつながりも大切と思うのです。

 

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Posted by 明行寺住職 at 19:27│Comments(0)法話
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