2024年04月02日
新品の「聖典」
新品の「聖典」
真宗聖典第二版発刊
親鸞聖人のご著書や書簡をはじめ、
浄土真宗における、よりどころとすべき教えの言葉を収めた、
『真宗聖典』を、真宗大谷派では刊行しています。
その「第二版」が4月1日付にて発刊されました。
初版との違いは、体裁では、文字のサイズや行間を大きくしていること、
原文にルビを振ってあること、などです。
内容では、底本の変更、年表の充実、
といったことがなされました。
東本願寺出版HP
僕の書き込み
手に取って開いてみると、見やすい体裁で、
受ける印象が変わりました。
どんな書物でもそうですが、体裁は読もうとする意識に大きく影響するもので、
今回の第二版刊行は嬉しいものです。
今までの聖典
ただ、ちょっと困っていることがあります。
今まで僕が使っていた『真宗聖典』は、自分が学び始めた時からのもの。
書き込みがたくさんあります。
例えば、どの著書のどの箇所が他の著書のどこに関係しているか、
どこから引用しているか、といったメモ書き。
また、特に覚えておく事柄など様々な色のラインを付けたところがあります。
僕など書き込みが少ない方かもしれませんが、
それらを新しい『真宗聖典』に転記するには箇所が多すぎてできるものではありません。
また、長い年月のうちに変色したラインは、
自分の学びの記録でもあって、励みにもなっていたのですが、
当然ながら新たな『真宗聖典』(以下「聖典)に持っていけるものではありません。
今後の研修・講義などでは新しい聖典で行われるでしょうから、
当然ながら、新しい聖典を使わなければなりません。
当分の間、ちょっとした手間と淋しさがありそうです。
再出発
しかし、時には、こういう手間や淋しさをともなうことも必要なのではないか、と思います。
ラインやメモは大切なのですが、
たくさん書き込むと、つい、勉強したような気になってしまうものです。
時々、どうしてここにマーカーを引いたのか、自分でも忘れてしまっていることがあります。
書き込みの無い聖典で、また新たに勉強して確かめる、ということも大切だと思うのです。
もう一つ、仏教の学びということからしても、
そんな学びの積み重ねを一旦リセットするのは大切なことだと思うのです。
なぜなら、学びを積み重ねたから、それなりの人間になったかな、などと、
そんな気持ちが出てくるものです。
「昨日今日、聖典を初めて開いた人」よりも、
長く読み続けてきた自分の方が、すぐれているハズ、という思いが、
つい、出てきてしまいます。
長く読み続けてきて、知識の量は優っているのですが、
そのことイコール、仏教によって目が開かれた、ということではないのです。
新品の聖典で学び始めることで、
またスタートに戻されるような感覚があります。
僕は50歳代半ばですが、ここで第二版が刊行されたことは、
ちょうどよいタイミングでした。
この先の自分を考える時に、思いがけず、学び直しを始めることになりました。
真宗聖典第二版発刊
親鸞聖人のご著書や書簡をはじめ、
浄土真宗における、よりどころとすべき教えの言葉を収めた、
『真宗聖典』を、真宗大谷派では刊行しています。
その「第二版」が4月1日付にて発刊されました。
初版との違いは、体裁では、文字のサイズや行間を大きくしていること、
原文にルビを振ってあること、などです。
内容では、底本の変更、年表の充実、
といったことがなされました。
東本願寺出版HP
僕の書き込み
手に取って開いてみると、見やすい体裁で、
受ける印象が変わりました。
どんな書物でもそうですが、体裁は読もうとする意識に大きく影響するもので、
今回の第二版刊行は嬉しいものです。
今までの聖典
ただ、ちょっと困っていることがあります。
今まで僕が使っていた『真宗聖典』は、自分が学び始めた時からのもの。
書き込みがたくさんあります。
例えば、どの著書のどの箇所が他の著書のどこに関係しているか、
どこから引用しているか、といったメモ書き。
また、特に覚えておく事柄など様々な色のラインを付けたところがあります。
僕など書き込みが少ない方かもしれませんが、
それらを新しい『真宗聖典』に転記するには箇所が多すぎてできるものではありません。
また、長い年月のうちに変色したラインは、
自分の学びの記録でもあって、励みにもなっていたのですが、
当然ながら新たな『真宗聖典』(以下「聖典)に持っていけるものではありません。
今後の研修・講義などでは新しい聖典で行われるでしょうから、
当然ながら、新しい聖典を使わなければなりません。
当分の間、ちょっとした手間と淋しさがありそうです。
再出発
しかし、時には、こういう手間や淋しさをともなうことも必要なのではないか、と思います。
ラインやメモは大切なのですが、
たくさん書き込むと、つい、勉強したような気になってしまうものです。
時々、どうしてここにマーカーを引いたのか、自分でも忘れてしまっていることがあります。
書き込みの無い聖典で、また新たに勉強して確かめる、ということも大切だと思うのです。
もう一つ、仏教の学びということからしても、
そんな学びの積み重ねを一旦リセットするのは大切なことだと思うのです。
なぜなら、学びを積み重ねたから、それなりの人間になったかな、などと、
そんな気持ちが出てくるものです。
「昨日今日、聖典を初めて開いた人」よりも、
長く読み続けてきた自分の方が、すぐれているハズ、という思いが、
つい、出てきてしまいます。
長く読み続けてきて、知識の量は優っているのですが、
そのことイコール、仏教によって目が開かれた、ということではないのです。
新品の聖典で学び始めることで、
またスタートに戻されるような感覚があります。
僕は50歳代半ばですが、ここで第二版が刊行されたことは、
ちょうどよいタイミングでした。
この先の自分を考える時に、思いがけず、学び直しを始めることになりました。
Posted by 明行寺住職 at 16:23│Comments(0)
│法話
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