2023年06月30日

植物男子の楽しみは

植物男子の楽しみは

「らんまん」が始まって
朝の連ドラで「らんまん」が始まって僕にとって嬉しいことは、
「植物男子」(植物好きの男性)がこれまで以上に、堂々とできる、
ということです。
…いや、思い違いかもしれませんが。植物男子の楽しみは



しばらく前に同じNHKで「植物男子ラベンダー」という番組がありました。
僕にとっては、植物を育てるのが好きというのはなんとなく言いだしにくい、という思いがあって、
人に話したことはありませんでしたが、かの番組が始まり、自信が持てたのでした。
といっても、盆栽のように専門的でも、ガーデニングのように華やかでもなく、
種をまいて育てるのが楽しみという程度のものですが、
芽が出てきた時の嬉しさというのは、いくつになっても変わらぬもので、
いまだ新鮮な感じがするのです。

僕も子どもの頃
子どもの頃から、学校の花壇や道端の花の種を採ってきて、蒔いて育てることが好きでした。
(右上のハルシャギクもそうなのです)
果たしてうちで同じように花を咲かせるのだろうかと、
それがわからないからこそ、楽しみでした。
育て方は、今ならネットで検索できますが、
小学校でアサガオや菊を育てる時に教わったことをもとにして、
多分こんな具合だろうということをやっていました。
鉢は学校のアサガオ学習で使ったあとのもの、
土は庭の土を掘って、肥料は物置にあった、おそらく祖父の盆栽用のものを使いました。

今考えてみれば、その辺りで咲いている花ですから、
大体はほうっておいても育って花を咲かせるものですが、
当時の僕にとっては、まず、芽が出たらうれしくなり、
初めて見る双葉、本葉、を新鮮な思いで見つめ、
つぼみが付いたら、翌日が楽しみでした。
そしてまた、採ってきた時と同じように種ができて、ここまでの約半年を思い出しては、
長い話の本を読み終えたような感覚を味わったものでした。

中学に入った頃からか、そんな時間とはずっと遠ざかっていましたが、
寺に入ってから、少しずつ「再開」しました。
飾ることを意識してアサガオもネットを張ってつるをはわせたりしていましたが、
いろいろやり出すと結構大変で、今は大がかりなことはせず、
鉢も限定して、地植えを中心にしました。
また、最初に戻ったようなものです。

芽が出て、咲いて、種ができて
変わらないのは、芽が出ては「さあ始まった」、つぼみが付いて「いよいよ」、
種ができて「ああ終わった」の繰り返し。
花が咲いた時はもちろん嬉しいのですが、それは本当に一瞬。
むしろ咲く迄を楽しみ、その後を慈しんでいるようなものです。

書いていて、何だか人の一生を重ねて見ているような感じになってきました。
そういえば、いつからか花の咲いた後に花がらを摘んだり、肥料をあげたりするようになりました。
以前は放っておいて枯れてから片付けていたのですが、
門徒さんから咲いた後が大事と教わってやり出したことです。
さぼってしまうこともあるのですが、花を二度味わっている気持ちになります。
僕も体力的にはピークを過ぎて、各種の健診に行ったりしていますが、
似たようなものかと。

因・縁・果
種という「因」に、水や肥料や日差しの「縁」、花という「果」、
その縁には季節の移ろいも含まれていて、やがて枯れていきます。

いのちとして始まり、いのちとして終えることを、いのちに帰る、と受け止めることを、
ほんらいに帰る、浄土に帰ると表現します。
植物男子はそんな学びをしています。



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Posted by 明行寺住職 at 10:34│Comments(0)法話
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