2023年01月31日
修業と修行
修業と修行
短くなる修業期間
「3か月でプロのすし職人になれる。そんな触れ込みの学校が現れた」
厳しい修業が過去のものになりつつあるようで、
学校の様子や修業への賛否が記事になっていました。
『信濃毎日新聞』1月13日(金)夕刊「日本アップデート更新中 9 」
「一人前になるまで10年かかる」と言われるそうですが、
厳しい修業では若い人が続かない、業界ももたない、という状況もあって、
高級店でも修業期間は短くなってきているそうです。
この学校では「2か月で魚のさばき方や握り方など基礎を、3か月目は接客やメニュー作りも学ぶ」
…のだそうです。
一方で、修業によって得られる「人間的成長」が失われるのではないかと、
危惧する声も載せられていました。
思想家で武道家でもあり、「修行論」の著書もある内田樹氏は、
修業とは、
「終わりのない自己陶冶の道に人を連れ出すもの」
といい、変わりゆく近年の状況を、
「教えていないことまで気づけば学んでいるというような師弟関係の一番豊饒な面が
失われかねない」
といいます。
修業をとおして学ぶこと
運動部のような上下関係や職人の師弟関係とは縁の無かった僕ですが、
それでも、職場に勤務していた頃の思い出として懐かしく思い出すことの一つに、
上司に鍛えられたこと、があります。
いや、現在では「鍛えられた」というと問題になりそうで、
「指導していただいたこと」と言った方がよいかもしれませんが、
そのおかげで身についた(であろう)ことは多く、ありがたいことなのです。
ビジネスマナーや書類作成はもちろんですが、ものごとの頼み方、進め方、などの、
目に見えない事柄が大きいです。
マニュアル化できない事柄は人間関係の中でこそ、学べるものと、今になって実感します。
パワハラをはじめとする、ハラスメントに当たるような「修業」はいけませんが、
人間関係の中での学びは失われてほしくないものです。
修業と修行
さて、「修業」とよく似た言葉で「修行」があります。
「修業」が技術の習得ならば、「修行」は仏道の修養。
「修行」は生き方の「修業」と言ってもよいかもしれません。
僕は、僧侶という職業柄、「修行をしてきた」と思われているようですが、
いわゆる「修行」の無い宗派に身を置いています。
もっとも、僕が尋ねられる「修行」は「僧侶になる課程としての修行」であって、
それこそ「修業」のニュアンスに近いのでしょう。
「修行が無い」のは、「自分が自分の思いで、ほんとうのことに目を覚ますことができない」
という教えが背景にあります。
自分の判断でおこなうことは、どこまでも「思い込み」を離れられず、
ほんとうのことに目を覚ますことができないわけです。
そんな私たちですから、「教え」を鏡のようにして、そこに自分を映して身のありようを知る、ということ。
鏡ですから、自分の身とは別でなければなりません。
そこに、いわゆる「修行」がおこなわれない、背景があります。
いのちの有り様を知ることや、真実に目を覚ますための「何か」を身に付けることはできないのです。
私たちを譬えていうなら、網目の籠のようなもの。
仏法を籠ですくおうとしても、こぼれおちてしまいます。
「そのかごを水につけよ」『蓮如上人御一代記聞書』
仏法の水に籠を漬しておくより他はない、と蓮如上人はおっしゃっいました。
修業するほどに知らされるもの
他の宗派のことを正確にはわかりませんが、
修行の目的として、自分の「とらわれ」を知らされる、という面もあるようです。
例えば「手を叩くと、パチンと音がするが、右手が鳴ったのか左手が鳴ったのか」
という問答。
修行僧は「答え」を指導の僧のところへもっていっては突き返されるそうですが、
自分の思い込みを知らされ、あるいは、答えを出せると思っている自分を知らされる、
そんな話を聞いたことがあります。
先の内田氏は、
「先達に黙ってついてゆくだけで目的地ははっきりしない。
全行程を俯瞰はできず、どんな技術や知識を身に付けるのかも
初めはわからないのが修業というものです」
…といいます。
学ぶほどに、自分は何もわかっていない、と思えるのが根底にあるのが伝統的な「修業」であり、
それは「修行」と通じることなのかもしれません。
短くなる修業期間
「3か月でプロのすし職人になれる。そんな触れ込みの学校が現れた」
厳しい修業が過去のものになりつつあるようで、
学校の様子や修業への賛否が記事になっていました。
『信濃毎日新聞』1月13日(金)夕刊「日本アップデート更新中 9 」
「一人前になるまで10年かかる」と言われるそうですが、
厳しい修業では若い人が続かない、業界ももたない、という状況もあって、
高級店でも修業期間は短くなってきているそうです。
この学校では「2か月で魚のさばき方や握り方など基礎を、3か月目は接客やメニュー作りも学ぶ」
…のだそうです。
一方で、修業によって得られる「人間的成長」が失われるのではないかと、
危惧する声も載せられていました。
思想家で武道家でもあり、「修行論」の著書もある内田樹氏は、
修業とは、
「終わりのない自己陶冶の道に人を連れ出すもの」
といい、変わりゆく近年の状況を、
「教えていないことまで気づけば学んでいるというような師弟関係の一番豊饒な面が
失われかねない」
といいます。
修業をとおして学ぶこと
運動部のような上下関係や職人の師弟関係とは縁の無かった僕ですが、
それでも、職場に勤務していた頃の思い出として懐かしく思い出すことの一つに、
上司に鍛えられたこと、があります。
いや、現在では「鍛えられた」というと問題になりそうで、
「指導していただいたこと」と言った方がよいかもしれませんが、
そのおかげで身についた(であろう)ことは多く、ありがたいことなのです。
ビジネスマナーや書類作成はもちろんですが、ものごとの頼み方、進め方、などの、
目に見えない事柄が大きいです。
マニュアル化できない事柄は人間関係の中でこそ、学べるものと、今になって実感します。
パワハラをはじめとする、ハラスメントに当たるような「修業」はいけませんが、
人間関係の中での学びは失われてほしくないものです。
修業と修行
さて、「修業」とよく似た言葉で「修行」があります。
「修業」が技術の習得ならば、「修行」は仏道の修養。
「修行」は生き方の「修業」と言ってもよいかもしれません。
僕は、僧侶という職業柄、「修行をしてきた」と思われているようですが、
いわゆる「修行」の無い宗派に身を置いています。
もっとも、僕が尋ねられる「修行」は「僧侶になる課程としての修行」であって、
それこそ「修業」のニュアンスに近いのでしょう。
「修行が無い」のは、「自分が自分の思いで、ほんとうのことに目を覚ますことができない」
という教えが背景にあります。
自分の判断でおこなうことは、どこまでも「思い込み」を離れられず、
ほんとうのことに目を覚ますことができないわけです。
そんな私たちですから、「教え」を鏡のようにして、そこに自分を映して身のありようを知る、ということ。
鏡ですから、自分の身とは別でなければなりません。
そこに、いわゆる「修行」がおこなわれない、背景があります。
いのちの有り様を知ることや、真実に目を覚ますための「何か」を身に付けることはできないのです。
私たちを譬えていうなら、網目の籠のようなもの。
仏法を籠ですくおうとしても、こぼれおちてしまいます。
「そのかごを水につけよ」『蓮如上人御一代記聞書』
仏法の水に籠を漬しておくより他はない、と蓮如上人はおっしゃっいました。
修業するほどに知らされるもの
他の宗派のことを正確にはわかりませんが、
修行の目的として、自分の「とらわれ」を知らされる、という面もあるようです。
例えば「手を叩くと、パチンと音がするが、右手が鳴ったのか左手が鳴ったのか」
という問答。
修行僧は「答え」を指導の僧のところへもっていっては突き返されるそうですが、
自分の思い込みを知らされ、あるいは、答えを出せると思っている自分を知らされる、
そんな話を聞いたことがあります。
先の内田氏は、
「先達に黙ってついてゆくだけで目的地ははっきりしない。
全行程を俯瞰はできず、どんな技術や知識を身に付けるのかも
初めはわからないのが修業というものです」
…といいます。
学ぶほどに、自分は何もわかっていない、と思えるのが根底にあるのが伝統的な「修業」であり、
それは「修行」と通じることなのかもしれません。
Posted by 明行寺住職 at 15:51│Comments(0)
│法話
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