2021年12月31日
人に出遇う 自分に出遇う
人に出遇う 自分に出遇う
迷惑かけない
武田砂鉄氏による2021年のベストセラー(※)への批評が新聞に出ていました。
「この本がお薦め」というのではなく、「このような本が売れるのはなぜか」と問うものです。
僕も持っている本も入っていたので、おそるおそる読み出しました。
※「ひもとく 今年売れた本」朝日新聞 2021年12月25日
日本出版販売株式会社 2021年年間ベストセラー(集計期間:2020.11.24~2021.11.21)
集計結果 https://www.nippan.co.jp/ranking/annual/
最初に全般的な傾向を次のように語っています。
「ベストセラー一覧を眺めながら感じとるのは、
『誰かに迷惑をかけないようにする』『それを、できるだけ効率よく達成する』という意欲である」
例えば、一位の『人は話し方が9割』については、
「日常のささいな会話においても、『自分が話したいこと』ではなく
『相手の求めている話をする』とあるのだが、自分の好きに話したいし、
相手もそうであってほしい。そこを譲りたくない」
と、相手に合わせたコミニュケーションを勧めることへの反発を述べています。
効率よいコミニュケーションを志向
僕は普段、そこまで考えて話していないので、
少しは気を遣わなくてはいけないな、と少々恥ずかしくなりました。
一方で武田氏の言うように好きなように話したくもあります。
「どうしてそんなに、他人を気にするのだろう」と、武田氏は続けます。
僕はといえば、話の中身同様に振る舞いも意識しているつもりで、実際には抜けていることが多いのですが、
人とトラブルになることは避けたいものです。
やることがたくさんあるのに、トラブルでこれ以上増やしたくない、という心情です。
そんな思いで他者に対していきますから、ちょっと引っかかる言い方があると、
面倒なことのきっかけを見てしまったような気になります。
まだ何も起きていないうちから取り越し苦労をしているようなものですが、
いつの間にか、そんなクセが身についていました。
人との会話で、相手と異なることであっても互いの考えを述べ合う、ということが少なくなりました。
コロナ感染拡大で、あまり時間が取れないためですが、
そうでなくても、どこか忙しい感覚が常にあって、
とりあえず心証をわるくしないで済ませてしまいたいのです。
人に遇う自分に遇う
顔は合わせているけれども、その人に会っているとは言い難いのです。
それでは自分へも目が向きません。
人に会って、自分に気が付くことも少なくなっているのではないでしょうか。
他者といろいろなやりとりを交わしてこそ深まる「価値観」「倫理観」が、「マナー」のレベルになって、
中身としては軽いものになってしまったように思います。
それでいて、時には付き合いとしては「重たい」「もっとのびのびやりたい」と感じます。
ものごとの「良し悪し」の基準が、「流行りすたり」で変わっていくようになった感があります。
時代にる変化は常ですが、速度が速くなりました。
武田氏は、
「自分の中にある考えを揺さぶる本よりも、効率的なコミニュケーションのための本が売れる傾向」と指摘しています。
昔むかしも似た様な状況があったのでしょうか。
武田氏の批評に通じるような親鸞聖人の言葉があります。
自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、
みずからがみ(身)をよしと思うこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、
(中略)無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、
煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。 『唯心鈔文意』
『唯心鈔文意』は、親鸞聖人が先輩である聖覚法印の『唯心鈔』に註釈をほどこされたものです。
意訳)自分の思いで価値判断する心を捨てるということは、
「立派」と言われる人も、「よいこと」「わるいこと」を繰り返している人も、
自分の身の振り方が正しいと思う心を捨てて、
自分の価値観を基準とせず、わるい心を自分で反省せず、
さまざまなことに妨げられることのない、
自分のはからいを超えた…「目を覚ましてほしいとの願い、広い智慧の名」…を信ずるならば、
フラフラする身でありながらも、自分と周りをそのままに見ることのできる世界観にいたるのである。
※専門的な面からすれば強引な意訳であることをご承知おきください。
揺さぶられて見える
自分の判断基準は、あくまで自分の基準。
それも、世間の風潮に影響されて、いつの間にか身に付いたものです。
自分のモノサシを離れて、ほんとうのことに目覚めよという「願いのごとく智慧(仏教)」を道しるべとして生きることが、
説かれています。
ほんとうのことに目覚める、といっても「これこそ真理」と何かを持ち出すような態度ではなく、
「その見方がほんとうに正しいのか」という問い直しを繰り返していくことです。
「自分の中にある考えを揺さぶる」ことで、
「ああ、そうだったか。あれは自分のモノサシだった」と目を覚まして、
自分にも相手にもはじめて遇えるのです。
そんな読書や経験が大切だと、あらためて考えさせられました。
本年もよろしくお願いします。
迷惑かけない
武田砂鉄氏による2021年のベストセラー(※)への批評が新聞に出ていました。
「この本がお薦め」というのではなく、「このような本が売れるのはなぜか」と問うものです。
僕も持っている本も入っていたので、おそるおそる読み出しました。
※「ひもとく 今年売れた本」朝日新聞 2021年12月25日
日本出版販売株式会社 2021年年間ベストセラー(集計期間:2020.11.24~2021.11.21)
集計結果 https://www.nippan.co.jp/ranking/annual/
最初に全般的な傾向を次のように語っています。
「ベストセラー一覧を眺めながら感じとるのは、
『誰かに迷惑をかけないようにする』『それを、できるだけ効率よく達成する』という意欲である」
例えば、一位の『人は話し方が9割』については、
「日常のささいな会話においても、『自分が話したいこと』ではなく
『相手の求めている話をする』とあるのだが、自分の好きに話したいし、
相手もそうであってほしい。そこを譲りたくない」
と、相手に合わせたコミニュケーションを勧めることへの反発を述べています。
効率よいコミニュケーションを志向
僕は普段、そこまで考えて話していないので、
少しは気を遣わなくてはいけないな、と少々恥ずかしくなりました。
一方で武田氏の言うように好きなように話したくもあります。
「どうしてそんなに、他人を気にするのだろう」と、武田氏は続けます。
僕はといえば、話の中身同様に振る舞いも意識しているつもりで、実際には抜けていることが多いのですが、
人とトラブルになることは避けたいものです。
やることがたくさんあるのに、トラブルでこれ以上増やしたくない、という心情です。
そんな思いで他者に対していきますから、ちょっと引っかかる言い方があると、
面倒なことのきっかけを見てしまったような気になります。
まだ何も起きていないうちから取り越し苦労をしているようなものですが、
いつの間にか、そんなクセが身についていました。
人との会話で、相手と異なることであっても互いの考えを述べ合う、ということが少なくなりました。
コロナ感染拡大で、あまり時間が取れないためですが、
そうでなくても、どこか忙しい感覚が常にあって、
とりあえず心証をわるくしないで済ませてしまいたいのです。
人に遇う自分に遇う
顔は合わせているけれども、その人に会っているとは言い難いのです。
それでは自分へも目が向きません。
人に会って、自分に気が付くことも少なくなっているのではないでしょうか。
他者といろいろなやりとりを交わしてこそ深まる「価値観」「倫理観」が、「マナー」のレベルになって、
中身としては軽いものになってしまったように思います。
それでいて、時には付き合いとしては「重たい」「もっとのびのびやりたい」と感じます。
ものごとの「良し悪し」の基準が、「流行りすたり」で変わっていくようになった感があります。
時代にる変化は常ですが、速度が速くなりました。
武田氏は、
「自分の中にある考えを揺さぶる本よりも、効率的なコミニュケーションのための本が売れる傾向」と指摘しています。
昔むかしも似た様な状況があったのでしょうか。
武田氏の批評に通じるような親鸞聖人の言葉があります。
自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、
みずからがみ(身)をよしと思うこころをすて、みをたのまず、あしきこころをかえりみず、
(中略)無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、
煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり。 『唯心鈔文意』
『唯心鈔文意』は、親鸞聖人が先輩である聖覚法印の『唯心鈔』に註釈をほどこされたものです。
意訳)自分の思いで価値判断する心を捨てるということは、
「立派」と言われる人も、「よいこと」「わるいこと」を繰り返している人も、
自分の身の振り方が正しいと思う心を捨てて、
自分の価値観を基準とせず、わるい心を自分で反省せず、
さまざまなことに妨げられることのない、
自分のはからいを超えた…「目を覚ましてほしいとの願い、広い智慧の名」…を信ずるならば、
フラフラする身でありながらも、自分と周りをそのままに見ることのできる世界観にいたるのである。
※専門的な面からすれば強引な意訳であることをご承知おきください。
揺さぶられて見える
自分の判断基準は、あくまで自分の基準。
それも、世間の風潮に影響されて、いつの間にか身に付いたものです。
自分のモノサシを離れて、ほんとうのことに目覚めよという「願いのごとく智慧(仏教)」を道しるべとして生きることが、
説かれています。
ほんとうのことに目覚める、といっても「これこそ真理」と何かを持ち出すような態度ではなく、
「その見方がほんとうに正しいのか」という問い直しを繰り返していくことです。
「自分の中にある考えを揺さぶる」ことで、
「ああ、そうだったか。あれは自分のモノサシだった」と目を覚まして、
自分にも相手にもはじめて遇えるのです。
そんな読書や経験が大切だと、あらためて考えさせられました。
本年もよろしくお願いします。
Posted by 明行寺住職 at 13:24│Comments(0)
│法話
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