2021年09月30日
過去の教訓と現代の課題
過去の教訓と現代の課題
子孫が招かれての法要
比叡山焼き討ち(元亀2年・1571年)から450年の節目にあたる本年9月12日、
延暦寺では織田信長と明智光秀の子孫を招き、慰霊法要やシンポジウムが開かれました。
「総攻撃」が行なわれた日とされる9月12日は、例年鎮魂塚にて双方の犠牲者を悼む法要が勤められているそうですが、
伝教大師最澄の1200回忌とも重なる本年は、阿弥陀堂でも法要が営まれました。
京都新聞HP
織田信長・明智光秀といえば、各地における一向一揆勢力との戦い、
そして大阪本願寺を10年にわたり攻撃した「大阪本願寺合戦(石山合戦)」(1570~1580)にいたるまで、
本願寺にも大変大きな影響を及ぼした戦国大名です。
当然ながら、織田・明智勢と真宗門徒に多大な犠牲者を出しました。
それだけに、比叡山に信長・光秀の子孫が招かれたという報道には、
「大きな決断だなあ」という感想を持ちました。
個人への思い
「怨親(おんしん)平等」
これが今回二人を招くにあたり、延暦寺が示した言葉です。
「戦場などで死んだ敵味方の死者の霊を供養し、恩讐を越えて平等に極楽往生させること」『仏教辞典』岩波書店
転じては、
「敵味方の差別なく。絶対平等の慈悲の心で接すること」『広辞苑』同
本願寺の歴史を学ぶ中で、「ひどいことをされたものだ」という思いがどうしてもわいてきます。
一方で、信長・光秀を一人の人間としてとらえれば、
「縁次第・条件次第」では、あのような大きな犠牲者を出す戦いの中心人物にもなる、と。
彼らの置かれた時代や状況を思えば、そのように考えざるを得ません。
過去の教訓と現代の課題
さて、東西本願寺としても同じように織田・明智の子孫を招いて法要を勤めるべきなのかと、
考えてみました。
子孫に対しては全く恨みの感情はありません。
大阪本願寺合戦は440年前のこと、大阪信長・光秀本人にも、
「ひどいなあ」とは思うものの、生々しい感情はわいてきません。
では、子孫を両本願寺に招くか、となると、すぐにはよしと思えないのです。
個人として両本願寺に来ていただくことは何も問題ないのですが、
歴史を踏まえた法要・事業としては、大きな課題があります。
歴史の教訓として大阪本願寺合戦をとらえるとき、
私がそこに学ぶべきことは、
「仏教と現実社会には緊張関係が必要」ということです。
信長の時代も現代も未来も、それは同じことです。
私は歴史や経済・行政を専門に学んではいませんが、
信長が大阪本願寺を攻撃したのは、経済活動の一つととらえたときに、
重要な戦略であったことでしょう。
交通の要衝であり商業の発達した寺内町をもっていたのですから。
その獲得のための手段が大きな軍事力でした。
蓮如上人以来の仏教が基盤となった寺内町では、
本願寺を中心として、定例の法座が勤まり、住民による自治がおこなわれていました。
仏法のはたらく領域、仏法を聞くための領域を「仏法領(ぶっぽうりょう)」といいます。
平たく言えば、寺院のヒト・モノ・カネは、その目的は仏法興隆のためということです。
あるいは、自分の力で稼いだものではなく、信心を根本とする志(こころざし)として、たまわったものである、
その意味で「仏からたまわっったもの」とも言えましょう。
大阪本願寺とその寺内町はまさしく仏法領であったのです。
その仏法領が軍事力を伴う経済活動に飲みこまれていくことへの対応として、
大阪本願寺合戦にいたった、と私は受け止めています。
では、現代はどうでしょうか。
寺院活動も当然ながら社会経済システムの中で行われます。
物品の購入、通信、移動…いずれもシステムを離れておこなうことは不可能です。
そんな中で緊張関係を保つことは、とても難しいことです。
例えば、巨大な物流システムが便利な一方で過酷な労働を強いていたり、
様々に歪みをもたらしていたりしますが、
寺院・教団の配布物・出版物の流通も、そのシステムの利用無しには成り立ちません。
そして何より、自分の判断基準・価値観が、現代の経済システムの考え方に影響されています。
「できる・できない」が人を見る時にも基準になっています。
根本の課題は続いていく
かつての信長のように、いかにもわかりやすいキャラクターと違って、
現代は「便利さ」「使い勝手のよさ」ゆえに、
それに飲みこまれていくことが、わかりにくくなっています。
寺院も「経済に飲み込まれて」と批判されて久しいのですが、
そう思うと440年前の先輩らの苦労にはとてもかないません。
仏法と現実社会の緊張関係は、時代が移り変わっても続いていくものです。
440年前の大阪本願寺合戦と形こそ違え、その根本の課題は今なお、問いかけてきます。
もっとも…。
物乞いをして生活せざるを得なくなった、光秀の旧臣で浄念と名のる者が教如上人に剃刀を申し出たことがありました。
教如上人は大阪本願寺合戦の陣頭に立って信長・光秀と戦ってきた人物です。
上人の家臣たちはもってのほかと反対したそうですが、
上人がそこで言われたことは、
「非僧非俗、我等遠行の後、死骸を加茂川に入れ、魚に与うべし、とある上は、本願寺の家は慈悲をもって本とす」
意訳「(仏弟子になるのには)僧とか俗とかという身分は関係ないということであり、
(親鸞聖人の言葉である)『自分の死骸を魚に与えよ』というのは、我が身を捨てて弥陀の慈悲を明らかにするということ、
これが慈悲を本とする本願寺だ」
参考『真宗』2013年1月号 「教如上人をたずねて」第1回 大桑 斉氏
※親鸞聖人の言葉である「自分の死骸を魚に与えよ」と、教如上人の引用は、語る目的に若干の違いがあります。
…と、こんなこともあったそうです。
子孫が招かれての法要
比叡山焼き討ち(元亀2年・1571年)から450年の節目にあたる本年9月12日、
延暦寺では織田信長と明智光秀の子孫を招き、慰霊法要やシンポジウムが開かれました。
「総攻撃」が行なわれた日とされる9月12日は、例年鎮魂塚にて双方の犠牲者を悼む法要が勤められているそうですが、
伝教大師最澄の1200回忌とも重なる本年は、阿弥陀堂でも法要が営まれました。
織田信長・明智光秀といえば、各地における一向一揆勢力との戦い、
そして大阪本願寺を10年にわたり攻撃した「大阪本願寺合戦(石山合戦)」(1570~1580)にいたるまで、
本願寺にも大変大きな影響を及ぼした戦国大名です。
当然ながら、織田・明智勢と真宗門徒に多大な犠牲者を出しました。
それだけに、比叡山に信長・光秀の子孫が招かれたという報道には、
「大きな決断だなあ」という感想を持ちました。
個人への思い
「怨親(おんしん)平等」
これが今回二人を招くにあたり、延暦寺が示した言葉です。
「戦場などで死んだ敵味方の死者の霊を供養し、恩讐を越えて平等に極楽往生させること」『仏教辞典』岩波書店
転じては、
「敵味方の差別なく。絶対平等の慈悲の心で接すること」『広辞苑』同
本願寺の歴史を学ぶ中で、「ひどいことをされたものだ」という思いがどうしてもわいてきます。
一方で、信長・光秀を一人の人間としてとらえれば、
「縁次第・条件次第」では、あのような大きな犠牲者を出す戦いの中心人物にもなる、と。
彼らの置かれた時代や状況を思えば、そのように考えざるを得ません。
過去の教訓と現代の課題
さて、東西本願寺としても同じように織田・明智の子孫を招いて法要を勤めるべきなのかと、
考えてみました。
子孫に対しては全く恨みの感情はありません。
大阪本願寺合戦は440年前のこと、大阪信長・光秀本人にも、
「ひどいなあ」とは思うものの、生々しい感情はわいてきません。
では、子孫を両本願寺に招くか、となると、すぐにはよしと思えないのです。
個人として両本願寺に来ていただくことは何も問題ないのですが、
歴史を踏まえた法要・事業としては、大きな課題があります。
歴史の教訓として大阪本願寺合戦をとらえるとき、
私がそこに学ぶべきことは、
「仏教と現実社会には緊張関係が必要」ということです。
信長の時代も現代も未来も、それは同じことです。
私は歴史や経済・行政を専門に学んではいませんが、
信長が大阪本願寺を攻撃したのは、経済活動の一つととらえたときに、
重要な戦略であったことでしょう。
交通の要衝であり商業の発達した寺内町をもっていたのですから。
その獲得のための手段が大きな軍事力でした。
蓮如上人以来の仏教が基盤となった寺内町では、
本願寺を中心として、定例の法座が勤まり、住民による自治がおこなわれていました。
仏法のはたらく領域、仏法を聞くための領域を「仏法領(ぶっぽうりょう)」といいます。
平たく言えば、寺院のヒト・モノ・カネは、その目的は仏法興隆のためということです。
あるいは、自分の力で稼いだものではなく、信心を根本とする志(こころざし)として、たまわったものである、
その意味で「仏からたまわっったもの」とも言えましょう。
大阪本願寺とその寺内町はまさしく仏法領であったのです。
その仏法領が軍事力を伴う経済活動に飲みこまれていくことへの対応として、
大阪本願寺合戦にいたった、と私は受け止めています。
では、現代はどうでしょうか。
寺院活動も当然ながら社会経済システムの中で行われます。
物品の購入、通信、移動…いずれもシステムを離れておこなうことは不可能です。
そんな中で緊張関係を保つことは、とても難しいことです。
例えば、巨大な物流システムが便利な一方で過酷な労働を強いていたり、
様々に歪みをもたらしていたりしますが、
寺院・教団の配布物・出版物の流通も、そのシステムの利用無しには成り立ちません。
そして何より、自分の判断基準・価値観が、現代の経済システムの考え方に影響されています。
「できる・できない」が人を見る時にも基準になっています。
根本の課題は続いていく
かつての信長のように、いかにもわかりやすいキャラクターと違って、
現代は「便利さ」「使い勝手のよさ」ゆえに、
それに飲みこまれていくことが、わかりにくくなっています。
寺院も「経済に飲み込まれて」と批判されて久しいのですが、
そう思うと440年前の先輩らの苦労にはとてもかないません。
仏法と現実社会の緊張関係は、時代が移り変わっても続いていくものです。
440年前の大阪本願寺合戦と形こそ違え、その根本の課題は今なお、問いかけてきます。
もっとも…。
物乞いをして生活せざるを得なくなった、光秀の旧臣で浄念と名のる者が教如上人に剃刀を申し出たことがありました。
教如上人は大阪本願寺合戦の陣頭に立って信長・光秀と戦ってきた人物です。
上人の家臣たちはもってのほかと反対したそうですが、
上人がそこで言われたことは、
「非僧非俗、我等遠行の後、死骸を加茂川に入れ、魚に与うべし、とある上は、本願寺の家は慈悲をもって本とす」
意訳「(仏弟子になるのには)僧とか俗とかという身分は関係ないということであり、
(親鸞聖人の言葉である)『自分の死骸を魚に与えよ』というのは、我が身を捨てて弥陀の慈悲を明らかにするということ、
これが慈悲を本とする本願寺だ」
参考『真宗』2013年1月号 「教如上人をたずねて」第1回 大桑 斉氏
※親鸞聖人の言葉である「自分の死骸を魚に与えよ」と、教如上人の引用は、語る目的に若干の違いがあります。
…と、こんなこともあったそうです。
Posted by 明行寺住職 at 09:54│Comments(0)
│法話
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