2021年08月31日
原因が知りたい 縁と因と果
原因が知りたい 縁と因と果
原因は分かっている発熱
新型コロナワクチンの接種を私も受けました。
聞いていたとおり、2回目は翌日に副反応で熱が出て身体がだるくなりました。
ここ数年は風邪をひくこともなかったので、発熱を経験するのは久しぶりでした。
風邪の時の喉の痛みや鼻水も煩わしい嫌なものですが、
発熱は気持ちの面でも落ち込みます。
今回の発熱はワクチンの副反応とわかっているので、
気持ちの面での負担は軽いものでした。
それにしても、原因がはっきりしていると、こうも違うものかと感じました。
接種前から、副反応が起こり得ると知っていたこと、
発熱する人の割合は50歳代なら30パーセント強(※)であり、
自分だけではないということ、
それが気持ちの負担を小さくしていました。
※厚生労働省HPより
原因を知りたい思いの底にあるもの
いやな事・トラブルも、原因が分かると多少なりとも、気持ちが楽になります。
原因が分かれば、どう対処したらよいのかも分かりますから、
半分は解決したようなものです。
逆に原因不明というのは、対処方法が分からず不安になります。
あまり大したトラブルでなくても、原因がハッキリしないと、
どうしてこんなミスをしたのか、などと、悔やんだりもします。
どこかに原因を求めずにはいられません。
私など、例えば「なぜ、カサを置き忘れたのか」「どうして、言い忘れたのか」と、
ささいな事でも原因を突きとめたくなるタチです。
しかし、原因とは結果から考えるものです。
そう言われると当然なのですが、
私たちのとらえかたは、
「さきに原因があって、それが結果を引き起こす」となりがちです。
縁・因・果
また、何か主な要因があったとしても、様々な条件が重なって起こったことが「結果」です。
例えば、花の種という「因」があっても、
水や温度、土、などの「縁」がなければ、
花という「果」は起こりません。
これが仏教でいう「縁起」という法(道理)です。
私たちは、常に自分に都合の良い事を求めます。都合の悪いことは避けたいものです。
そのために、良い方へ進む方法を考えます。
成功するためのノウハウを求め、失敗する原因は取り除こうとします。
けれども、失敗した場合、それを引き起こした原因はたくさんあります。
その中で、主なものは一応は分かりますが、全ては把握できないものです。
条件も重なり合って起こったことです。
つい、「これさえ無ければ」「あれさえしなければ」と悔やみますが、
ほんとのところ、それ一つではないのです。
また、都合の悪いこと、嫌なこと、は、何かしら原因があるにせよ、
あくまで、その人にとっての原因です。
例えば、Aさんが苦手という人が、Aさんと同じグループになったとすれば、
その人にとって憂うつの原因はAさんということになります。
一方、Aさんが苦手ではなく、気に障ることもないという人にとっては、
Aさんは憂うつの原因でもなんでもない人なのです。
そんな時に苦手なAさんに対して、「あの人さえいなければ」と思ったりしますが、
すべきことは、Aさんに苦手意識を感じることがどうしてなのか、
それをよく見つめていくことでしょう。
私たちは、時には、わからないままに原因を決めつけてしまいます。
先に述べた、私がミスをしたときに、何か原因を探さないと済まないのも、
そうなのですが、
自分の外側に原因を探したい、自分は悪くない、と思いたいのです。
縁起の道理をどう受け取るか
何か特定の思い付く理由があって、それだけが結果を引き起こしたわけではない、
ということを表わすのが縁起の教えです。
加えて、それが不都合、「苦」であるならば、
「苦」と受け止める自分の有り様を見つめてこそ解決にいたる、ということでもあります。
(気の持ち様、とか、自分が全てわるい、ということではありません。
自分の状況を認識することから、ということです)
熱が出たら不安になります。
様々な条件が重なって出た熱です。
その場合、ワクチンは主な「因」、他に体質・体力・ここ数日の過ごし方などの条件「縁」があって、
熱が出たわけでしょう。
受け止め方としては、そこまで、にしておくのがよいと思うのです。
「どうしてこんなに熱が上がったのだろう」という思いに、
あまりとどまり過ぎないで、対処に気持ちを向けたいものです。
「今日は、この用事をやりたかったのに、どうしてこんなに熱が上がったのだろう」などと考え続けると、
とらわれにハマってしまいます。
譬えとしてのワクチンの副反応の話ですので、そんなに深刻に悩んだり困ったりしたわけではありませんが、
上記と似た様な受け止めパターンを、案外よくやってしまっているのが私たちです。
先輩の言葉ですが、
「原因はたくさん。結果は一つ」
です。
ただし、ワクチンにどうして異物が混入したのか、
というような場合は、よく原因を追究しなければなりません。
合わせて、「縁」である「条件」も、です。
原因は分かっている発熱
新型コロナワクチンの接種を私も受けました。
聞いていたとおり、2回目は翌日に副反応で熱が出て身体がだるくなりました。
ここ数年は風邪をひくこともなかったので、発熱を経験するのは久しぶりでした。
風邪の時の喉の痛みや鼻水も煩わしい嫌なものですが、
発熱は気持ちの面でも落ち込みます。
今回の発熱はワクチンの副反応とわかっているので、
気持ちの面での負担は軽いものでした。
それにしても、原因がはっきりしていると、こうも違うものかと感じました。
接種前から、副反応が起こり得ると知っていたこと、
発熱する人の割合は50歳代なら30パーセント強(※)であり、
自分だけではないということ、
それが気持ちの負担を小さくしていました。
※厚生労働省HPより
原因を知りたい思いの底にあるもの
いやな事・トラブルも、原因が分かると多少なりとも、気持ちが楽になります。
原因が分かれば、どう対処したらよいのかも分かりますから、
半分は解決したようなものです。
逆に原因不明というのは、対処方法が分からず不安になります。
あまり大したトラブルでなくても、原因がハッキリしないと、
どうしてこんなミスをしたのか、などと、悔やんだりもします。
どこかに原因を求めずにはいられません。
私など、例えば「なぜ、カサを置き忘れたのか」「どうして、言い忘れたのか」と、
ささいな事でも原因を突きとめたくなるタチです。
しかし、原因とは結果から考えるものです。
そう言われると当然なのですが、
私たちのとらえかたは、
「さきに原因があって、それが結果を引き起こす」となりがちです。
縁・因・果
また、何か主な要因があったとしても、様々な条件が重なって起こったことが「結果」です。
例えば、花の種という「因」があっても、
水や温度、土、などの「縁」がなければ、
花という「果」は起こりません。
これが仏教でいう「縁起」という法(道理)です。
私たちは、常に自分に都合の良い事を求めます。都合の悪いことは避けたいものです。
そのために、良い方へ進む方法を考えます。
成功するためのノウハウを求め、失敗する原因は取り除こうとします。
けれども、失敗した場合、それを引き起こした原因はたくさんあります。
その中で、主なものは一応は分かりますが、全ては把握できないものです。
条件も重なり合って起こったことです。
つい、「これさえ無ければ」「あれさえしなければ」と悔やみますが、
ほんとのところ、それ一つではないのです。
また、都合の悪いこと、嫌なこと、は、何かしら原因があるにせよ、
あくまで、その人にとっての原因です。
例えば、Aさんが苦手という人が、Aさんと同じグループになったとすれば、
その人にとって憂うつの原因はAさんということになります。
一方、Aさんが苦手ではなく、気に障ることもないという人にとっては、
Aさんは憂うつの原因でもなんでもない人なのです。
そんな時に苦手なAさんに対して、「あの人さえいなければ」と思ったりしますが、
すべきことは、Aさんに苦手意識を感じることがどうしてなのか、
それをよく見つめていくことでしょう。
私たちは、時には、わからないままに原因を決めつけてしまいます。
先に述べた、私がミスをしたときに、何か原因を探さないと済まないのも、
そうなのですが、
自分の外側に原因を探したい、自分は悪くない、と思いたいのです。
縁起の道理をどう受け取るか
何か特定の思い付く理由があって、それだけが結果を引き起こしたわけではない、
ということを表わすのが縁起の教えです。
加えて、それが不都合、「苦」であるならば、
「苦」と受け止める自分の有り様を見つめてこそ解決にいたる、ということでもあります。
(気の持ち様、とか、自分が全てわるい、ということではありません。
自分の状況を認識することから、ということです)
熱が出たら不安になります。
様々な条件が重なって出た熱です。
その場合、ワクチンは主な「因」、他に体質・体力・ここ数日の過ごし方などの条件「縁」があって、
熱が出たわけでしょう。
受け止め方としては、そこまで、にしておくのがよいと思うのです。
「どうしてこんなに熱が上がったのだろう」という思いに、
あまりとどまり過ぎないで、対処に気持ちを向けたいものです。
「今日は、この用事をやりたかったのに、どうしてこんなに熱が上がったのだろう」などと考え続けると、
とらわれにハマってしまいます。
譬えとしてのワクチンの副反応の話ですので、そんなに深刻に悩んだり困ったりしたわけではありませんが、
上記と似た様な受け止めパターンを、案外よくやってしまっているのが私たちです。
先輩の言葉ですが、
「原因はたくさん。結果は一つ」
です。
ただし、ワクチンにどうして異物が混入したのか、
というような場合は、よく原因を追究しなければなりません。
合わせて、「縁」である「条件」も、です。
Posted by 明行寺住職 at 09:54│Comments(0)
│法話
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