2021年05月31日

自らを拠り所とせよ

自らを拠り所とせよ 

主治医の逝去
家族ともどもお世話になっていた掛かりつけの医院の院長が亡くなりました。自らを拠り所とせよ

僕が長野に帰ってきてから長らくお世話になり、
子どもたちもまた、生まれて間もなくから診ていただいて、
成長も見守っていただいたのでした。

近年は、院長以外にも大学の恩師や、かつて面倒をみていただいた方が亡くなられ、
そんなお別れをしなければならない年齢になったのだと思わされます。

これからは自分で判断せねばならない
ある方がおっしゃっていたのですが、
 
 先生・恩師がおられる間は、
 何かあれば先生に尋ね、教えを請うことができる、
 だから安心していられる、
 頼っていることができる。
 先生がおられなくなって、
 初めて自分で判断していかなければならない。

そのことを実感します。

頼っていたということ
掛かりつけの主治医の先生のことで言えば、
「運動することを心がけて生活してくださいね」と言われて、
それはそれで気に留めているつもりでいましたが、
一方で「何かあったら、先生に掛かればいいや…」という思いもあったわけです。

これからは自分で健康に留意しなければなりません。
幸い、しっかりと跡を継いでおられる先生に診ていただけるのですが、
あらためて「健康は自分で気を付けないといけない…」と思わされました。

大学の恩師も同様でした。
仏教のみならず幅広い分野について、見解を示してくださっていましたので、
僕としては「先生の見解を読んでいれば、ものの見方として、まず間違いないだろう」
と思っていました。
先生の見方の根本にあるものまで、僕は十分学んでいませんでしたので、
亡くなってから、「さて、どういう見方をしていったらよいのか」と、
何とも頼りない思いがよぎりました。

自灯明・法灯明
「自灯明・法灯明」という言葉があります。
お釈迦様の遺言の一つです。
「死んでゆく私を拠り所とするのではなく、また、人が言っていることを拠り所とするのではなく、
 自分を拠り所(ともしび)とし、教えを拠り所として生きていきなさい」
というものです。

「自分を拠り所に」とは「自分の思いどおりに振る舞う」ということではなく、
自分が本当に頷けること、ということです。

主治医にせよ、恩師にせよ、
亡くなられて、それぞれから教わったことを、
こんどは自分で確かめながら、頷きながら歩んでいく。
それが僕にとっての自灯明・法灯明です。

自分で歩いていかないといけないのだなあ、
と思わされることが段々と増えてきました。
教わることとは、自分で歩むためにこそ必要なのだと、今更ながら感じます。





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Posted by 明行寺住職 at 09:02│Comments(0)法話
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