2020年10月31日
川の「汚れ」と海の「栄養」
川の「汚れ」と海の「栄養」
瀬戸内海が「きれいになりすぎて」、
海藻類などの栄養源となる窒素やリンなど栄養塩の濃度が低下し、
養殖ノリの色が落ちたり、漁獲量が減っているとのことです。
かつては、動物の死骸や枯れた植物、
人間の日常生活から排出される程度の「汚れ」が
河川を通して、海に流れ込んでいたものが、
海の栄養となっていたそうです。
それが、工場排水や合成洗剤など分解されないものが流れ込むようになり、
海洋汚染を引き起こしたということですが、
下水の処理能力の向上や排水の規制が進み、きれいになったら、
こんどは栄養が不足してしまったとは、
人間のおこないとはどういうものかを表わしているようです。
それにしても、あらためて「海」の役割の大きさを考えさせられました。
魚をはじめ海に住む生き物は、それぞれが「自分の力」で生きている、
ととらえていましたが、
海によって育まれているのだと、受け止め直しました。
今回の「海の栄養」の話題に触れて、
大きな海は、たくさんのいのちを包み込んで育んでいるイメージがわきました。
さて、越後に流罪にされ、海を見て過ごされた親鸞聖人の著述には、
「海」の文字が多く見られます。
お釈迦様の教えを物語形式にした「お経」での、「海」の語の出てくる頻度は、
浄土真宗の根本とされる次の3つの経典では、
『仏説無量寿経』に10箇所、
『仏説観無量寿経』に2箇所、
『仏説阿弥陀経』では0、です。
それに対して、親鸞聖人の著述である『教行信証』では94箇所。
『浄土和讃のおしえ 上巻』澤田秀丸 法蔵館 より
「海」をもって、仏の智慧の深さや広さ、人の心のありさま、などを表わしています。
名号不思議の海水(かいしい)は 逆謗(ぎゃくほう)の屍骸(しがい)もとどまらず
衆悪(しゅあく)の万川(ばんせん)帰(き)しぬれば 功徳のうしおに一味なり
『高僧和讃』
<意訳>
あらゆる悪の流れ(行ない)も、仏のさとりの海に帰り入れば、
功徳の味一つに転換されるのです。
(参考『毎日法語Ⅲ』東京教区教化委員会)
人のさまざまな行ないは、自己中心で、よかれと思ったことが迷惑になったりします。
あるいはその逆もありますが、
いずれにせよ、個人の思いはからい…煩悩…を超えられないものです。
それが仏教の教えに触れて、「ああ、そうだった」と気が付けば、
「ほんとうのこと」に気付いた、と言えます。
むしろ、ぶつかり合いやイザコザが気付くきっかけとなる。
イザコザは気付きのために必要なものとも言えます。
煩悩無しでは、逆に覚りを得られないと言ったら言い過ぎかもしれませんが。
川の「汚れ」が「栄養」になる。
「煩悩」と「覚り」が、それに重なるように思えたことです。
11月28日は親鸞聖人のご命日。
ご命日の法要「報恩講(ほうおんこう)」が勤まります。
「おしらせ」を参照ください。
瀬戸内海が「きれいになりすぎて」、
海藻類などの栄養源となる窒素やリンなど栄養塩の濃度が低下し、
養殖ノリの色が落ちたり、漁獲量が減っているとのことです。
かつては、動物の死骸や枯れた植物、
人間の日常生活から排出される程度の「汚れ」が
河川を通して、海に流れ込んでいたものが、
海の栄養となっていたそうです。
それが、工場排水や合成洗剤など分解されないものが流れ込むようになり、
海洋汚染を引き起こしたということですが、
下水の処理能力の向上や排水の規制が進み、きれいになったら、
こんどは栄養が不足してしまったとは、
人間のおこないとはどういうものかを表わしているようです。
それにしても、あらためて「海」の役割の大きさを考えさせられました。
魚をはじめ海に住む生き物は、それぞれが「自分の力」で生きている、
ととらえていましたが、
海によって育まれているのだと、受け止め直しました。
今回の「海の栄養」の話題に触れて、
大きな海は、たくさんのいのちを包み込んで育んでいるイメージがわきました。
さて、越後に流罪にされ、海を見て過ごされた親鸞聖人の著述には、
「海」の文字が多く見られます。
お釈迦様の教えを物語形式にした「お経」での、「海」の語の出てくる頻度は、
浄土真宗の根本とされる次の3つの経典では、
『仏説無量寿経』に10箇所、
『仏説観無量寿経』に2箇所、
『仏説阿弥陀経』では0、です。
それに対して、親鸞聖人の著述である『教行信証』では94箇所。
『浄土和讃のおしえ 上巻』澤田秀丸 法蔵館 より
「海」をもって、仏の智慧の深さや広さ、人の心のありさま、などを表わしています。
名号不思議の海水(かいしい)は 逆謗(ぎゃくほう)の屍骸(しがい)もとどまらず
衆悪(しゅあく)の万川(ばんせん)帰(き)しぬれば 功徳のうしおに一味なり
『高僧和讃』
<意訳>
あらゆる悪の流れ(行ない)も、仏のさとりの海に帰り入れば、
功徳の味一つに転換されるのです。
(参考『毎日法語Ⅲ』東京教区教化委員会)
人のさまざまな行ないは、自己中心で、よかれと思ったことが迷惑になったりします。
あるいはその逆もありますが、
いずれにせよ、個人の思いはからい…煩悩…を超えられないものです。
それが仏教の教えに触れて、「ああ、そうだった」と気が付けば、
「ほんとうのこと」に気付いた、と言えます。
むしろ、ぶつかり合いやイザコザが気付くきっかけとなる。
イザコザは気付きのために必要なものとも言えます。
煩悩無しでは、逆に覚りを得られないと言ったら言い過ぎかもしれませんが。
川の「汚れ」が「栄養」になる。
「煩悩」と「覚り」が、それに重なるように思えたことです。
11月28日は親鸞聖人のご命日。
ご命日の法要「報恩講(ほうおんこう)」が勤まります。
「おしらせ」を参照ください。
Posted by 明行寺住職 at 10:04│Comments(0)
│法話
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。