2020年04月30日
不安は不安のままに向き合ってこそ ~コロナ感染症の不安に思う~
不安は不安のままに向き合ってこそ ~コロナ感染症の不安に思う~
緊急事態宣言がいつ解除されるのか、わからない中、
私自身も不安やいらだちがあります。
あまり、自分ではあまり意識していないのですが、ちょっとした場面で、
これまでならたいして気にもとめなかったようなことにイラっとしては、
「ああ、僕もコロナのストレスがきているなあ」と気付くのです。
さて、そんな不安や苛立ちからだと思うのですが、
感染の拡大に対して「犯人探し」や「バッシング」をしたり、
医療関係者に対して差別的な対応をしたり、という報道が多くみられます。
地元長野においても、「口コミ」の速さを感じる場面がありました。
ある地域において誰かが感染した、という事実に対して、
さまざまな意味付けをしていくことで、
互いのリスクを高めてしまうことは避けたいことです。
聞き慣れた言葉ですが、「事実をそのままに」ということが、
このような事態においてこそ、大切なことと思います。
【正見】(しょうけん)という言葉があります。
仏教の教えにかなう「実践」である八つの道【八正道】(はっしょうどう)の一つです。
「何ものにも執着しない正しい見方」です。
私たちは、物事を見ながらも、自分の都合で意味付けをしていきます。
親鸞聖人から八代目にあたる蓮如上人は、かの一休さんと友達だったそうですが、
こんな話が残っています。
ある日、京都の大徳寺にある曲がりくねった大きな松の前に、立て札が立てられます。
そこには「この松をまっすくに見れた者は、一休のところへ来い」と書いてありました。
人々があちこちから松を眺め、まっすぐに見えるところを探し求めているところへ、
蓮如さんとお供の者が通りかかります。
蓮如さんは、お供の者に
「一休さんのところへ行って、あの松は曲がった松だと申してきなさい」とおっしゃいました。
お供の者が「あの松は曲がった松です」というと、
一休さんは「蓮如さんだね」とお答えになられました 『仏教ハンドブック』(東本願寺出版)より引用
私たちは、自分が見聞きしたことを、そのまま「真実」と受け止めます。
しかし、自分の都合でとらえています。
誰でも感染する可能性があるのに、感染した人をおとしめる言い方を聞くことがあります。
不安の持って行き場の無さから、その感情をバッシングに持って行ってしまっては、リスクを高めることになってしまいます。
これについては日本赤十字社のパンフレットが大切なことを伝えています。
新聞・テレビでご覧になった方も多いでしょう。
こちらから⇒日本赤十字社「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!~負のスパイラルを断ち切るために~」
不安は不安として、「しんどいねえ」「ストレスたまるねえ」といった雑談など、
そのまま吐き出すことで軽くなるように思います。
それが、不安をそのまま認める「正見」でもあると思います。
緊急事態宣言がいつ解除されるのか、わからない中、
私自身も不安やいらだちがあります。
あまり、自分ではあまり意識していないのですが、ちょっとした場面で、
これまでならたいして気にもとめなかったようなことにイラっとしては、
「ああ、僕もコロナのストレスがきているなあ」と気付くのです。
さて、そんな不安や苛立ちからだと思うのですが、
感染の拡大に対して「犯人探し」や「バッシング」をしたり、
医療関係者に対して差別的な対応をしたり、という報道が多くみられます。
地元長野においても、「口コミ」の速さを感じる場面がありました。
ある地域において誰かが感染した、という事実に対して、
さまざまな意味付けをしていくことで、
互いのリスクを高めてしまうことは避けたいことです。
聞き慣れた言葉ですが、「事実をそのままに」ということが、
このような事態においてこそ、大切なことと思います。
【正見】(しょうけん)という言葉があります。
仏教の教えにかなう「実践」である八つの道【八正道】(はっしょうどう)の一つです。
「何ものにも執着しない正しい見方」です。
私たちは、物事を見ながらも、自分の都合で意味付けをしていきます。
親鸞聖人から八代目にあたる蓮如上人は、かの一休さんと友達だったそうですが、
こんな話が残っています。
ある日、京都の大徳寺にある曲がりくねった大きな松の前に、立て札が立てられます。
そこには「この松をまっすくに見れた者は、一休のところへ来い」と書いてありました。
人々があちこちから松を眺め、まっすぐに見えるところを探し求めているところへ、
蓮如さんとお供の者が通りかかります。
蓮如さんは、お供の者に
「一休さんのところへ行って、あの松は曲がった松だと申してきなさい」とおっしゃいました。
お供の者が「あの松は曲がった松です」というと、
一休さんは「蓮如さんだね」とお答えになられました 『仏教ハンドブック』(東本願寺出版)より引用
私たちは、自分が見聞きしたことを、そのまま「真実」と受け止めます。
しかし、自分の都合でとらえています。
誰でも感染する可能性があるのに、感染した人をおとしめる言い方を聞くことがあります。
不安の持って行き場の無さから、その感情をバッシングに持って行ってしまっては、リスクを高めることになってしまいます。
これについては日本赤十字社のパンフレットが大切なことを伝えています。
新聞・テレビでご覧になった方も多いでしょう。
こちらから⇒日本赤十字社「新型コロナウイルスの3つの顔を知ろう!~負のスパイラルを断ち切るために~」
不安は不安として、「しんどいねえ」「ストレスたまるねえ」といった雑談など、
そのまま吐き出すことで軽くなるように思います。
それが、不安をそのまま認める「正見」でもあると思います。
Posted by 明行寺住職 at 15:47│Comments(0)
│法話
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