2020年03月31日

ことの本質を見つめるとき 新型コロナウイルス感染症の感染拡大に際して

ことの本質を見つめるとき

新型コロナウイルス感染症が更に拡大する中、
皆さんそれぞれの立場・状況での受け止め方があると思いますが、
僕にとっては「今まで積み上げてきたことが崩れてしまった」という感覚です。

ことの本質を見つめるとき 新型コロナウイルス感染症の感染拡大に際して
卒業式の縮小や入学式の延期をはじめ、
多くの分野で、予定していた事業が中止になり、
努力して築いた仕事の「しくみ」「システム」が動かないのですから、
何のためにやってきたのか、という思いの方は多くおられることでしょう。

寺や教団の行事なども、具体的な「モノ」としてあるのではなく、
人が集まってなされてこそ行事ですから、
それが行なわれないと、何もなくなってしまったように感じます。

また一方で、「形にならないことが、ちゃんと残っている。」ということも気付きました。
法事など、当初の予定より少ない人数になるなど、変更も多いのですが、
施主さまをはじめご家族・ご親族の方が法事を迎えるに際して抱えておられた「思い」は変わることなく、お勤めされました。
そこに、「崩れてはいない」と感じました。
ことの本質を確かめさせられた思いです。

本質ということで言えば、
「便利さ」「文明」、ということも考えさせれらました。
交通の進歩発展により、人の移動が増え、感染の規模も世界的になったこと。
情報技術が進んだことで、人々の対応も早くなりましたが、
スーパーの品不足などもすぐに起こります。

けれども、交通・情報の発展で支援も早く遠くまで可能になり、
何より医療の進歩で救われる命は昔に比べたら格段に多くなりました。

文明の進歩を単純に良し悪しで言うことはできないのですが、
私たちの行動の「本質」が問われているのは確かだと思います。
何のために急いでいるのか、多く必要としているのか、効率の良さを望んでいるのか…。
そのようなことを問い直す機会を持つことは、これ迄なかなかありませんでした。

それゆえに、進歩によってもたらされた「便利な道具」を、まだまだ使いこなせていないのかもしれません。
極端な言い方になりますが、
新しいモノを手にして、嬉しくて、何でもいいから試してみたい、
という段階なのかもしれません。

日々の当たり前だった事柄が、いとおしく感じられる最近ですが、
ことの本質を考えさせられます。

お釈迦様が、王子として生まれ、何不自由ない生活を送りながらも、
「ほんとうのこと」を知りたいと、城の外へ出られたことと同じように、
私たちもまた、「ほんとうのこと」に頷きたいのではないでしょうか。

文明の発展、技術の進歩、によってもたらされた「便利さ」は、あくまで「道具」。
ことの本質「ほんとうのこと」を見つめて、
やっと、使い方を見出せるのではないでしょうか。







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Posted by 明行寺住職 at 11:28│Comments(0)法話
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