2019年09月30日

「即効性」のとらわれ

「即効性」のとらわれ 

御嶽海が2度目の優勝を果たし、長野県民には特に嬉しいニュースとなりました。
9月23日の信濃毎日新聞朝刊は見開き2ページで扱ったほどです。

この日の「信毎」では、稽古についても触れていました。「即効性」のとらわれ

「他協議のトップ選手や指導者の助言も参考にした。
 ただ、水中運動や食事の順番など、即効性を感じないと、
 早々に見切りをつけることが少なくなかった」
とあります。

稽古をしていても「この方法でよい」と思えないと、不安になるものでしょう。
御嶽海のみならず、私達も同様です。
ダイエットや勉強など、何事も効果を感じてこそ、続けれらるものですが、
効果が出てくるまである程度の期間を経なくてはなくてはなりません。
その間に効果の程に「疑問」を感じることもあるでしょう。

それは仏教を学ぶ上でも同じです。
例えば座禅は、あの姿勢を組むこと自体、心の落ち着きそのもののイメージがあり、
まさに「即効性」のイメージです。
滝に打たれる滝行も、同様です。
(いずれも僕は詳細を知りませんが、奥深いところもあるのでしょう)

では、真宗の学びはどうでしょうか。
「聞法=教えを聞くこと」が言われます。
それによる「効果」はどんなことでしょうかと、尋ねられることがあります。
「怒りっぽい性格が少しは穏やかになる」「ガマンができるようになる」…?
そんな効果があったら、僕はとっくにそうなっています。
いや、なっていない現在の僕は、学びが足りない?
いわゆる「修行が足りない」ということでしょうか?

そもそも、どんな状態になることを目ざすべきなのか?
これが最初からよくわかっていないのです。

あえて、「効果」を言えば、
教えを聞いて、自分の現実に頷けるということなのです。
今までとは違う自分になることではありません。

自分の現実に頷けるとは、「こういう自分であった」と自分で認められるということです。
例えば、
たくさんの原因があって結果としての自分の現状がある、とか、
物ごとの見方が自分中心だった、とか、
そんなことを、人間に共通のこととして、自分の身にも起こったことであると、
受け取れることです。

だからそこには、「これでよいのか」という、「効果」の程をに「疑問」を挟む余地はないのです。
言い換えれば、「ああ、こういう自分だった」と思えたことが、
それがそのまま「教えを聞いた結果」なのです。

御嶽海は中学時代の監督の、
「何か一つでもいいから続けることが大事」との言葉が胸に響いたそうです。
仏教を学ぶことは、「効果」を期待して教えを聞き続けることではありませんが、
聞き続ける中で、「ああ、これは自分のことだったのか」と言い当てられる、
これが、教えを聞いたことになるのです。
「信知」と言います。







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Posted by 明行寺住職 at 15:03│Comments(0)法話
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