2018年09月30日

名を残したい思いとは

名を残したい思いとは

善光寺の仁王門で「千社札」を剥がす作業が行なわれました。
          (『信濃毎日新聞』9月14日朝刊)
再建から100年を迎え、建物や景観を守るため、
一週間程かけて全て剥がし、今後は一切貼らないように協力を求める、とのことです。名を残したい思いとは


寺や神社に貼られている「千社札」(せんじゃふだ)は、
 
 「江戸時代中期以降に流行」したもので、
 「『題名を記した札(題名札)が貼られている間は、参籠(さんろう:宿泊参拝)と同じ功徳がある』
  と言う民間信仰での風習から、日帰り参拝者が参籠の代わりに自分の札を貼った事から始まり、
  神社仏閣の許可をもらって御朱印を頂いた上で千社札を張るのが本来の慣わしである」
 (『ウィキペディア』より引用)

ということが、本来の趣旨なのだそうです。
最近ではゲームセンターなどで、千社札を模したシールを作ることもできるようです。
ゲームセンター利用の世代でも作って貼る人がいることは、意外に感じました。

寺にお参りしたことの「積み重ね」を「形」に表わしたい、という気持ちは、
やはり出てくるものだと思います。
努力して段々と向上していくことが、仕事でも勉強でも、私たちの日常では常識的なことだからです。

けれども、私たちの人間性について言えば、そう簡単に向上しないものです。
ちょっとしたきっかけで、すぐに気持ちが動いてしまいます。
寺にお参りした回数が多いからといって、
お参りの数が少ない人より人間性が向上したわけではありません。
お参りが多いことは、自分の姿を知らされる機会が多い、ということであって、
尚一層、自身の愚かさを気付かされることなのです。
だから、仏教の学びは、それを積み重ねても、人間性が向上するわけではないのです。
ゆえに、功徳を得た印である御朱印や千社札は不要です。

さて、「千社札」の本来の趣旨とは違うのですが、
自分の名前を残すということでは、
観光地などで、自分の名前と日付の落書きがされているのを、
かつてはよく見かけました。

あれは、「記念」なのでしょうけど、
なぜ、書き込みたくなるのでしょうか。
感想などを記入するノートが置いてあるところもあります。

私自身も、いつか再び来た時に見てみたいなあ、という思いはあります。
深く考えて書くものではありませんが、
自分の足跡を残したいという思いが、心の奥底にあるのでしょう。

「独生独死 独去独来」
 
 <読み下し>
 「ひとり生じ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来たり」
                  (『仏説無量寿経』)

私たちは、人のつながりの中で生きていますが、
自分の道は自分しか歩けないのです。
代わりがきかないゆえに尊いのですが、
時に孤独感を感じたり、自分がいなくなることに不安を感じます。
普段は意識しませんが、
そのことが、名を残したいということの根底にあるように思います。

名を残すといえば、
東本願寺では御修復の完了した御影堂・阿弥陀堂の屋根瓦には、
寄付してくださった方のお名前が印刷されています。
参照:東本願寺HP

こちらの目的は、「功徳」ということではなくて、
むしろ、後の時代の人に伝えるという趣旨なのです。
後の世の人が、寄進してくださった人の名前に、その思いをたずねていく、また、確かめていく。
そのことが教えを聞く人が存続していく上で大切なことでありますし、
今の私たちも、名前を記すことで、後世の人に託す思いを、自分の中で確かめることになるのです。

もう一つ、名前を記すことについて言えば、
「合計何人」で見なしてしまうのではなく、
「ひとり一人」が集まっていること、を表わしているのです。
たとえ知らない人であっても、
「合計何人」では伝わらない、「ひとり一人の」願いに思いを馳せることができます。

沖縄の、「平和の礎(いしじ)」など、
(沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑)、
名前が刻まれていることで、「ひとり一人」であることを実感させられます。
参照:県営平和祈念公園

さて、千社札や名前を書き残すことに話を戻しますが、
自分がいなくなることへの不安は、
亡くなって後のことのようでありながら、むしろ現在に不安があるのではないでしょうか。
また、自分の名前を貼り出すことは、自分が助かりたいという思いが、より強く表れていることなのではないでしょうか。

「弥陀の五劫思惟(ごこうしゆい)の願(がん)をよくよく案(あん)ずれば、ひとえに親鸞一人(いちにん)がためなりけり」
                                                 (『歎異抄』後序)
<意訳>
「たすかるはずのない凡夫を何とかしてたすけたいという、阿弥陀如来の願いは、まさに自分に向けられている(と感じられる)」

自分の抱える悩み苦しみは、自分自身に向き合うより他ありません。
もちろんそこに、他者のアドバイスなども必要ですが、
それも自分に向き合ってこそ、生きてくるものです。
向き合うためには、先の「独生独死…」ということ、
つまり自分の道は自分しか歩けない、ことを通してこそ、できることなのだと思います。
その時に初めて、仏教の教えが響いてくるということ。
これが、「親鸞一人がためなりけり」と感じられたことなのでしょう。
「自分のために…」ということは、
「教えの中身は他人事ではなくて、私を言い当てていることだった」ということです。

「名を残したい」あるいは「私を助けてほしい」という思いは否定できませんが、
そんな私が「残したいものは何か」「私に向けられている願いは何か」という方向から考えてみることも必要ではないでしょうか。




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Posted by 明行寺住職 at 11:45│Comments(0)法話
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