2018年01月31日

なぜ「7」か、それは「6」の次だから

なぜ「7」か、それは「6」の次だから

「長野郷土史研究会」さんが出版された『善光寺四十九霊地-善光寺と長野の七名所』に、
当明行寺も「七院」の一つとして、掲載されました。

善光寺周辺にある七つのお寺を「七院」といいます。
明行寺は時代によって「七院」に含まれたり含まれなかったりしますが、
当山の歴史は門前町の歴史とともにあります。なぜ「7」か、それは「6」の次だから


さて、この「七」という数は何を表わしているかご存知ですか。
一週間の7日、「ラッキー7」…など、世界各地でそれぞれ意味があります。

仏教においては、「六」を越えるというところに重みがあります。
お釈迦様が生まれてすぐに七歩あるいた、と語られるのは、
六つの苦しみを越えた、ということを表わしているのです。

「地獄・餓鬼・畜生・人・天・修羅」。
いずれも、私たちの有り様です。
地獄がどこかにある怖い世界ではなく、
餓鬼がどこかにいる鬼ではなくて、
「地獄の日々だな…」とか「鬼のような人…」というように、
私たちの日常そのものです。

一つ一つの解説はとても書ききれないので、別の機会にしまして、
不完全ですが、ごく簡単に申します。
※詳細は「東本願寺公式HP」(「真宗の教え」>「正信偈の教え」第26回)を参照ください

地獄は我儘。
餓鬼は貪り。
畜生は依存。
人は情念。
天は満悦。
修羅は争い。

字面のとおりですね。
日々、それを繰り返しているのです。

「地獄のノルマを、争って達成して、満悦になっていたら、
 情にほだされて、貪るうちに、依存してしまった」

というようなものだと、ある先生が、妙にリアルに教えてくれましたが、
この繰り返しが、「六道輪廻」です。

「輪廻」とは、「次に生まれてくるときは違う生き物になって…」というインド古来の思想です。
仏教では、そんな「生まれ変わり」があるハズはなく、
あるのは上記のような、自ら苦しみを作り出すような生き方を次々繰り返すこと。
それこそが「輪廻」であるとされます。

そこから脱け出すことは容易ではありません、
自覚すらありません。
無自覚な私たちに、その有り様を教える言葉が「六道」です。
それを越えた生き方として「七」が語られます。

脱け出せない「六道」ですが、
そこに居るのだと知らされれば、
何か必死でもがいている自分が、
何に苦しんでいるのか、苦しみの正体が見えて来ます。
「ああ、このことで苦しんでいたのだなあ」と分かると、
ちょっと楽になります。

理不尽をガマンすることとは違いますよ。
主張すべきところはしなくてはいけません。
それが往々にして、どこを主張するのかの見極めを誤りがちです。

「七院」にご参詣いただいたら、
六道を越えられるというわけではありませんが、
私の毎日の感情を、六道の中のいずれであるのか、
ちょっと振り返ってみる機会になれば、
それが「七院」参詣の意義に適うのかもしれません。

※「四十九」も仏教において大きな意味があります。
 またの機会に語りたいことです。





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Posted by 明行寺住職 at 14:08│Comments(0)法話
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