2017年11月30日
「自分らしい最期」とは~「ちからなくしておわるとき」
「自分らしい最期」とは~「ちからなくしておわるとき」
「終活」という言葉をよく見かけるようになりました。
人生の締めくくりに向けての準備ということですが、
ひと昔前なら、亡くなる前から死後の手続きや葬儀について準備することは、
「とんでもない…」と、話題にするのも避けられていたことでした。
家族の状況が多様化し、
従来のように自分の死後の事を家族に任せることが難しくなったことが、
生前の準備である「終活」が取り上げられる背景にあるのでしょう。
さて、10月31日の信濃毎日新聞には、全面広告として見開き2ページにわたり、
「自分らしい最期を迎えるために」との「PR特集」が組まれていました。
ちょうどその後、親鸞聖人のご命日法要である報恩講を明行寺で勤めましたので、
法話では、このことも含めて「終わりに向き合う」というテーマでお話ししました。
十分に伝えきれなかったことや、後から気付いたこともありましたが、
最も言いたかったことは、下記のこと、私が不安に感じていることなのです。
それは、この新聞広告の「自分らしい最期」という言葉、
最初は好印象を受けるのですが、
いや、ちょっと待って、「自分らしい亡くなり方」ってあるのだろうか、
と考えてしまいます。
「終活」という言葉をよく見かけるようになりました。
人生の締めくくりに向けての準備ということですが、
ひと昔前なら、亡くなる前から死後の手続きや葬儀について準備することは、
「とんでもない…」と、話題にするのも避けられていたことでした。
家族の状況が多様化し、
従来のように自分の死後の事を家族に任せることが難しくなったことが、
生前の準備である「終活」が取り上げられる背景にあるのでしょう。
さて、10月31日の信濃毎日新聞には、全面広告として見開き2ページにわたり、
「自分らしい最期を迎えるために」との「PR特集」が組まれていました。
ちょうどその後、親鸞聖人のご命日法要である報恩講を明行寺で勤めましたので、
法話では、このことも含めて「終わりに向き合う」というテーマでお話ししました。
十分に伝えきれなかったことや、後から気付いたこともありましたが、
最も言いたかったことは、下記のこと、私が不安に感じていることなのです。
それは、この新聞広告の「自分らしい最期」という言葉、
最初は好印象を受けるのですが、
いや、ちょっと待って、「自分らしい亡くなり方」ってあるのだろうか、
と考えてしまいます。
広告の中では、
葬儀の勤め方…規模・式場など…が人それぞれの形でよい、
という意味での「自分らしい最期」ということのようです。
「世間並み」にせねばと無理をする必要はなく、
その人(世帯)の状況に合う方法で勤めたらよいのですから、
その意味で「自分らしい最期」ならばよいのです。
引っかかるのは、「自分らしい最期」という言葉から、
「理想的な亡くなり方」がイメージされて、世の中に広まると、
それに囚われてしまうのではないか、ということです。
「まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず」『末燈鈔』
とは、親鸞聖人が80歳代で門弟に送られたお手紙の中の言葉です。
「人の死にざまに良し悪しを言うことではない」ということです。
生きることも、自分の思いどおりにならないように、
死ぬことも、思うようにならない、ということです。
だからこそ、事実をありのままに受け止めて生きること…、
との趣旨を続けて語られます。
人の死に際して、時として、「気の毒な亡くなり方だった」とか、
「あの人は生前ああだったから、あのような亡くなり方をした…」、
という会話を耳にすることがあります。
私もそのように人を見なしてしまうことがあります。
でも、その方の人生はそれだけではないわけです。
もっと、知らないことがたくさんあるのに、亡くなり方だけで、人生全体が括られてしまう。
「気の毒」で終わりでは悲しいことです。
ある先輩がおっしゃったことです。
・・・「理想的な死」とは、何でしょうか。
例えば、「家族に囲まれて、感謝の言葉を伝えて、穏やかに息を引き取る…」
というものでしょうか。
仮に、そのような亡くなり方ができたとしても、
それは、様々な条件が揃って成り立ったことなのです。・・・
にもかかわらず、
亡くなり方にあたかも優劣を付けるような傾向が強まることは、避けたいものです。
「死んでしまったのなら、自分はもうこの世にいないのだから、
何を言われてもいいではないか」、といわれるかもしれませんが、
亡くなり方に優劣が付けられる社会は、生きている人にとっても居心地の悪い社会でしょう。
親鸞聖人の言葉には、「海」がたくさん出てきます。
群生海、本願海、難度海…。
越後に流罪にされ、日本海を見て、あらゆるものをおさめとる海に、
いのちの根源を見出されたのでしょうか。
「如衆水入海一味」『教行信証』行巻『正信偈』
「衆水、海に入りて一味なるがごとし」
意訳:さまざまな水が、海に入って一つになるようなものです。
生きている時は、社会的な立場や役割の差異がありますが、
亡くなるときは、誰でも平等に「いのち」を終えるのです。
もともと、平等のいのちを生きているのですが、
いのちの上に立場や役割を被って生きていますので、
いのちが見えにくいのです。
それが、亡くなることで、「いのちが生きていた」と気づかされる。
「いのちの平等」に帰る、ということを、
いろいろな川の水が海に入って一つになることに譬えているのです。
亡くなり方に優劣を付けられるものではありませんし、
「理想とする死に方」のために努力をする必要もないということです。
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、
ちからなくしておわるときに、
かの土へはまいるべきなり」『歎異抄』第9条
意訳「どんなに名残り惜しく思えても、この世の縁が尽きて、
なすすべなくいのちの終焉を迎えるときに、
阿弥陀の浄土へまいることができるのです」(参考 親鸞仏教センター 歎異抄研究会)
阿弥陀の浄土とは、ここでは、
「いのちの平等が確かめられる場所」、と受け止めてよいかと思います。
「ちからなくして」は「なすすべなく」とありますが、
それは「情けないことに…」ということではないのです。
「自分でどうにかできるものではない」「どうにかしようとする必要もない」
ということです。
延命治療についての意思表示を書きとめたり、
身近な人に、治療や介護、死後の整理などを伝えることを否定しているのではありません。
むしろ大切な事と思います。
ただ、それ以上にもっと大きな視点で考えたときに、
いつ・どこで・どうなるのかは、わからない、ということがあります。
それに対して「力まず」に認めていくことが、
「ちからなくして」ということです。
葬儀の勤め方…規模・式場など…が人それぞれの形でよい、
という意味での「自分らしい最期」ということのようです。
「世間並み」にせねばと無理をする必要はなく、
その人(世帯)の状況に合う方法で勤めたらよいのですから、
その意味で「自分らしい最期」ならばよいのです。
引っかかるのは、「自分らしい最期」という言葉から、
「理想的な亡くなり方」がイメージされて、世の中に広まると、
それに囚われてしまうのではないか、ということです。
「まず、善信が身には、臨終の善悪をばもうさず」『末燈鈔』
とは、親鸞聖人が80歳代で門弟に送られたお手紙の中の言葉です。
「人の死にざまに良し悪しを言うことではない」ということです。
生きることも、自分の思いどおりにならないように、
死ぬことも、思うようにならない、ということです。
だからこそ、事実をありのままに受け止めて生きること…、
との趣旨を続けて語られます。
人の死に際して、時として、「気の毒な亡くなり方だった」とか、
「あの人は生前ああだったから、あのような亡くなり方をした…」、
という会話を耳にすることがあります。
私もそのように人を見なしてしまうことがあります。
でも、その方の人生はそれだけではないわけです。
もっと、知らないことがたくさんあるのに、亡くなり方だけで、人生全体が括られてしまう。
「気の毒」で終わりでは悲しいことです。
ある先輩がおっしゃったことです。
・・・「理想的な死」とは、何でしょうか。
例えば、「家族に囲まれて、感謝の言葉を伝えて、穏やかに息を引き取る…」
というものでしょうか。
仮に、そのような亡くなり方ができたとしても、
それは、様々な条件が揃って成り立ったことなのです。・・・
にもかかわらず、
亡くなり方にあたかも優劣を付けるような傾向が強まることは、避けたいものです。
「死んでしまったのなら、自分はもうこの世にいないのだから、
何を言われてもいいではないか」、といわれるかもしれませんが、
亡くなり方に優劣が付けられる社会は、生きている人にとっても居心地の悪い社会でしょう。
親鸞聖人の言葉には、「海」がたくさん出てきます。
群生海、本願海、難度海…。
越後に流罪にされ、日本海を見て、あらゆるものをおさめとる海に、
いのちの根源を見出されたのでしょうか。
「如衆水入海一味」『教行信証』行巻『正信偈』
「衆水、海に入りて一味なるがごとし」
意訳:さまざまな水が、海に入って一つになるようなものです。
生きている時は、社会的な立場や役割の差異がありますが、
亡くなるときは、誰でも平等に「いのち」を終えるのです。
もともと、平等のいのちを生きているのですが、
いのちの上に立場や役割を被って生きていますので、
いのちが見えにくいのです。
それが、亡くなることで、「いのちが生きていた」と気づかされる。
「いのちの平等」に帰る、ということを、
いろいろな川の水が海に入って一つになることに譬えているのです。
亡くなり方に優劣を付けられるものではありませんし、
「理想とする死に方」のために努力をする必要もないということです。
「なごりおしくおもえども、娑婆の縁つきて、
ちからなくしておわるときに、
かの土へはまいるべきなり」『歎異抄』第9条
意訳「どんなに名残り惜しく思えても、この世の縁が尽きて、
なすすべなくいのちの終焉を迎えるときに、
阿弥陀の浄土へまいることができるのです」(参考 親鸞仏教センター 歎異抄研究会)
阿弥陀の浄土とは、ここでは、
「いのちの平等が確かめられる場所」、と受け止めてよいかと思います。
「ちからなくして」は「なすすべなく」とありますが、
それは「情けないことに…」ということではないのです。
「自分でどうにかできるものではない」「どうにかしようとする必要もない」
ということです。
延命治療についての意思表示を書きとめたり、
身近な人に、治療や介護、死後の整理などを伝えることを否定しているのではありません。
むしろ大切な事と思います。
ただ、それ以上にもっと大きな視点で考えたときに、
いつ・どこで・どうなるのかは、わからない、ということがあります。
それに対して「力まず」に認めていくことが、
「ちからなくして」ということです。
Posted by 明行寺住職 at 09:23│Comments(0)
│法話
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。