2017年04月30日

同じところを目指して伝わる -道徳教育-

同じところを目指して伝わる -道徳教育-

「親には孝行し、夫婦は仲良く、友達は大切に…。」

ある学校での「人の道」の説き方が、ちょっと話題になりましたので、
それでは現在、多くの学校での道徳教育はどんな内容なんだろうか?と、
子どもの使っていた、中学校の道徳教育用の教材を読んでみました。
『私たちの道徳 中学校』文部科学省発行


思っていたより、「道徳的」な(聖人君子のような潔癖な)印象ではなく、同じところを目指して伝わる -道徳教育-

自分の進路や地域のこと、介護や家族のあり方、男女共同参画、
など、幅広い内容です。
写真やイラストが多く、最近の話題も盛り込み、
スポーツ界や経済界の人の言葉も多く掲載されています。

一見、時事問題を中学生向けに理解しやすく解説したもののようにも見えるのですが、
「地域を発展させていきたい」「社会に貢献したい」という、
主語のないメッセージが並んでいるのが、特徴です。

学ぶべき内容である、人への気遣いや社会での身のふるまいは、
少し前だったら、「おじいちゃん・おばあちゃん」や「近所のおじさん・おばさん」
あたりから、さりげなく教わったことでした。
仕事の誇りやお手伝いは、両親から小言を言われて身に付いたものでした。
それらを文部科学省が企画立案して、施策として実施しないと人が育たない状況なのでしょうか。
そこまで社会がダメになったとは思いませんが、
教え・教わる状況が変わったことは、
わが子と自分の子ども時代の状況を比べるにつけ、そう思わざると得ません。
僕の親の世代にとっては更に強く感じておられることでしょう。

とはいえ、学んだことを身に付けることは、
生活の中で、実際の場面においての経験をとおしてしかできないものです。
国ができるのは、あくまで「きっかけの準備」までであると、
限界を心得ておかねばならないと思います。
当たり前のことながら、案外このことが忘れられがちで、
「道徳教育」によって、社会の風潮が改められるような期待を抱いている節が、
多かれ少なかれ誰にでもあるのではないでしょうか。
お題目を唱えるよりも、自分の振る舞いを見直すことでしか、
状況も変わらないですし、人に、特に子どもには伝わらないように思います。

僕は「大切なこと」を、どこで教わってきたのか、と振り返った時に、
思い浮かぶ場面がいくつかあります。
その一つは、以前にも本欄で書いたことがありますが、
給湯室の掃除係をしながら用務員さんととお話したことです。

給湯室掃除係の生徒は一人。
隣にある用務員室の前の廊下も受け持ち範囲でした。
割り当て時間の半分ほどで掃除は終えてしまうのですが、
それを見計らって用務員さんが、
「終えたか。まあ、あたっていけや」と声をかけてくれて、
そこにある小さなストーブの前で、
学校のことなどをいろいろお話ししました。

一か月ほどのサイクルで別の場所の掃除に移るまでの間でしたが、
僕にとって大きな土台になっている経験の一つです。

親以外の大人と話すこと、ということで、
「世間話をする」ということを教わった面があります。
また、先生なら時間内いっぱい掃除をするようにおっしゃったことでしょうけれど、
ちょっとは息抜きもすることを教えてもらいました。
かつ、生徒が困らないように、やるべき掃除もきちんとやらせることも心得ていてくれました。

それは、あとになって、
上記のような言葉に表現できるようになったわけですが、
小学生だった当時も、子どもなりに感じ取っていました。
用務員さんは、「ああしなさい、こうしなさい」とは言わないのですが、
「今、大切なことを教わっているな」という感じがありました。
そんなふうに、特別あらたまって「こうしなさい」と言われなくても、
例えば、作業なら作業を教わりながら、
「何かもう一つのことを教わった」という感じがするような出遇いが、
大切なのではないかと思います。
また、「僕のことを気遣ってくれているな」と感じると、
それに応えて、「ちゃんとしなければいけない」、という気持ちになります。

自ら信じ、人を教えて信じせしむること…「自信教人信」、
という言葉があります。
善導大師の『往生礼讃』に出てくる言葉ですが、
私の受け止めとしては、

「自分の生き方として目指すところが、相手にも見えることで、相手もそれを目指して生きるようになる」
言い換えれば、
「まずは、自分が目指していなければ、相手に伝わらないし、相手も目指そうとしない」
…ということだと思います。

安心して人と人が接することが難しい社会になってしまい、
親と先生以外の大人と接する機会が持ちにくくなりました。
だからすぐに道徳教育、というのではなくて、
限られた可能な範囲での人との接点を保ちながら、
そこで何かを感じ取っていくゆとりを持ちながら、
緩やかにつながりを回復していくことが、
ゆっくりながら、もっとも確かな道なのではないでしょうか。




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Posted by 明行寺住職 at 17:15│Comments(0)法話
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