2016年08月31日

老いを敬う

老いを敬う

お医者さんと話していたら、
「オリンピックのある年は、いろんな健康法が流行りますけど、
 中には間違ったものあるから、気を付けてくださいね」老いを敬う

と言われました。

活躍する選手の姿に触発されて、健康を意識したり、
体力を維持したいと考えるからなのでしょうか。
私自身、40歳代半ばとなり、当然ながら20・30歳代の頃とは疲れ方が違うので、
「体力維持のために何か始めた方がいいかなあ…」などと思うことがあります。

体力を維持して、仕事を続けれらること、身の回りのことを自分でできること…、
それを少しでも長く…と望むのは、その根っこに、
「役に立たなくてはいけない」「なるべく人の世話になるべきではない」、
という思いがあるからでしょうか。
なかなか離れられないものです。

その潜在的な意識を気付かせる言葉が、
国が掲げる「一億総活躍社会」です。
その名称には、頑張らないと肩身が狭いような印象を受けるのですが、
もともと僕自身が持っていた「役立つ人でないといけない」という思いを、
言い当てています。

どんな施策なのだろうと、政府のホームページを見てみました。
首相官邸HP「一億総活躍社会の実現」
(中ほどに表があります)
「希望を生み出す強い経済」「夢をつむぐ子育て支援」「安心につながる社会保障」という、
「新・三本の矢」の実現に向けた取り組みです

「安心につながる社会保障」というので、言葉通り「安心してお世話になったらいいのかな」
と思ったら、
高齢者本人や生まれてきた子ども本人のためというより、
その介護や世話をする人が、そのために離職することを防ぐことが主な目的でした。
経済活動の存続のために必要なことですが、
どうしても、高齢者や子どもは「手のかかる存在」という見方を離れられないのです。
「人の世話になること」を「負担をかける」という見方だけに狭めてしまっているように感じます。
かつて介護関係の仕事に就いていたとき、
「介護する側」と「介護される側」の関係は、
「上下関係であってはならない」ということが言われ、
また、そう思いながらも、何かしっくりいかないものを感じていました。
「役に立たなくてはいけない」「人の世話になるべきではない」という思いが潜在的にありながら、
目の前の利用者を「尊重しなければ」と思っていたからでしょう。

さて、今月の東本願寺発行の月刊『同朋』の特集は「介護が開く豊かな世界」です。
東本願寺出版HP
「対談」で、介護職員であり民族学者の六車由美さんが、介護現場での「聞き書き」について語っています。
介護の利用者に、歩んできた人生を聞き書きすることで、
「介護する側、される側」という固定した関係を離れ、
ひとりの人間として向き合うことができるようになるというものです。

六車さんの話をもう少し読んでみたくなり、
著書『介護民俗学へようこそ!―「すまいるほーむ」の物語―』(新潮社)を買って読み始めてみました。
新潮社HP
もともと大学で民族学を研究していた六車さんが、
様々な理由で大学を退職し、介護施設で働いていると、
利用者の方々が子どもの頃や社会人として活躍していた頃のことを語り出すので、
民俗学研究者としての好奇心を刺激され、メモをとらずにいられなくなった、というのです。
高度経済成長期に村々を歩いて電線を引く仕事をしていた人、
電話交換手、蚕の鑑別をしていた人…。
「豊かな語りの世界が広がっていた」のだそうです。

「聞き書き」が利用者の心を安定させる、というようなことが目的ではなく、
介護現場における介護の有り様をもっと柔軟なものに変えていく可能性が「聞き書き」にある、
と六車さんはいいます。
「介護現場でスタッフたちは、利用者さんがどんな人生を歩んできたのかということについて
 ほとんど知らないという現実がある」、
そのことが、「介護される側と介護する側という関係に固定化されてしまう」と指摘しています。
かつて私が感じた、しっくりしないもの、はここに大きな原因があったようです。

「それまで援助の対象でしかなかった利用者さんがその生き方とともに
 立体的に浮かび上がってきて、介護スタッフは、長い人生を歩んできたひとりの人間として
 利用者さんと初めて向き合うことができるようになってくる。(中略)
 たとえば、手のかかる認知症の利用者さんが、聞き書きでその生き方がわかってくると、
 尊敬すべき人生の大先輩と思えるようになったし、人として愛おしくなったのである」と。
こうして人と人との関係が回復していくという様が詳しく語られています。

「敬老の日」という言葉が何か軽くなった気がする昨今ですが、
どんな歩みであれ「生きてきたということ」に教わることがあって、
それが「敬い」に値するのだと思います。
「これができる」「自分でできる」ということなど吹き飛ばしてしまいます。

「解脱の光輪きはもなし 光触かふるものはみな 有無をはなるとのべたまふ 平等覚に帰命せよ」
とは親鸞聖人の『和讃』の言葉です。
「解放の光はどこまでも広がる 光を受けたものは誰もが とらわれの心をはなれるといわれた。 
 平等の覚りにめざめて行きよ。」(戸次公正訳『正信偈』より)

「役に立たなくてはいけない」という「とらわれ」を離れさせてくれるのは、
「生きてきたこと」を語ってくれる人のお話が照らす「光」なのでしょう。









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Posted by 明行寺住職 at 08:53│Comments(0)法話
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