2016年07月31日

「自分OK・相手OK」

「自分OK・相手OK」

相模原市の障がい者施設での事件は、
元職員による犯行という点と、
ヘイト(憎悪)な感情を発露した点が、
大きく引っかかります。
僕もかつて福祉関係の職場に在職しましたので、
考えてしまうのです。

以前に起きた、川崎市の老人ホームでの事件も元職員の犯行でした。
3月の拙文にも書きましたが、
利用者の「ありのまま」が受け止められないことの問題を感じました。

今回の事件は、容疑者の状況など、まだ十分に解明されていない段階ですので、
あくまでも、現段階での僕の感想なのですが、
川崎市の事件と同様のことを感じます。
自分と相手の「ありのまま」を受け止めることが困難な人が就労してしまったのではないか、
ということです。

かつて職場の研修で「利用者との信頼関係の築き方」を学んだときのことを思い出しました。
「『自分OK・相手OK』でないと、この仕事はしんどいかもしれない」
という講師の言葉です。
「自分NO・相手OK」だと、相手の存在が重くのしかかり、自分で抱え込んでしまいます。
「自分OK・相手NO」だと、ぞんざいなふるまいになってしまいます。
「自分NO・相手NO」は、自分も相手も許せなくなります。

誰でも、上記のいずれの面を少しずつ持っているのですが、
相手にも自分にも「NO」が強まっていると、
ギクシャクしたり、生きづらかったりします。

ヘイトな感情は、近年、社会のいろいろな場面で見られ、
それが相乗的な影響を及ぼしているようにすら感じます。
容疑者個人の問題をむやみに社会的に拡大すべきではないのかもしれませんが、
職場の問題や容疑者個人の思想傾向というより、
社会にまん延しているヘイトな感情の相乗的な影響があるのではと、憂慮します。

加えて言うなら、容疑者に対する社会的な感情が、
まわり回って、
この社会の中での「生きづらさ」につながることが不安です。

まだ解明中ですので、あまり断定的なことを言うべきではないのですが、
障がい者の命を奪った容疑者もまた、感情面の「障がい」があったのではないでしょうか。

かつての研修で「救い」だったのは、
「自分と相手」の「OK」「NO」の度合いは、
同じ人でも、状況や時間の経過によって変わっていくと聞いた(…と記憶しています)ことです。
そうであってほしいのです。

「自分OK・相手OK」
そう言ってくれるはたらきを、「如来」、といいますが…。
どこかで、それを感じとれて、自分も他人も受入れていけるのでしょう。

今は、ちょっと、まだ、この事件については、何とも言えないのです。



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Posted by 明行寺住職 at 09:39│Comments(0)法話
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