2015年12月01日

やはらかな葉とかたい枝

やはらかな葉とかたい枝

11月の終わりに長野市も初雪が降り、
「ようやく」といった感じで寒くなりました。

木々の葉っぱが散って、ゴツゴツした枝が目立つようになりました。
朝日新聞の一面『折々の言葉』11月22日は、そんな、木と葉の詩が紹介されていました。
高見 順さんのことばです。やはらかな葉とかたい枝


「葉はやはらかく 枝はかたい
 かたい枝が やはらかい葉をつくる」

鷲田清一氏は、
「苦労を、痛い体験を、幾重にも内に畳み込むなかで、
 少しずつではあるが人には芯ができてゆく。
 堅い芯ができてようやっと、弱さに震えている他者にも思いをはせること、
 重ねることができるようになる。風にそよぐ葉のように」
と、紹介しています。

あまり苦労らしい苦労をしていない僕ですが、
自身と周りを振り返って思うのは、
苦労や痛い体験が、単にそれで終わるのではなく、
堅い芯になってこそ、人にやさしくなれるのだろう、ということです。

不公平・理不尽な体験、受け止め難い事…に出会って、
それがそのまま恨みつらみに終えてしまうのではなく、
「本来はこうであって然るべき」と、
通すべき筋道が見えるようになること。
あるいは「これは、自分の思い通りにならなかっただけだ」と、
同じくものごとの道理が見いだせること。
言うならば、道理が自分の中でハッキリすることで、
理不尽さを見抜いたり、改めるべき方向が見えたり、
自分の都合で物事を見ていたことがわかったりして、
その結果、人にやさしくできるのでしょう。
道理が見えないままでは、
例えば、問題を抱えていても、順調に進んでいるように見なしてしまったり、
困難な状況にいる人に気付けないで過ごしてしまいます。
おかしいと思っても、ただ何となく腹を立てるだけで終えてしまいます。

逆に、単に気の毒だという感情だけで対応してしまうのは、
やさしいとは言い難いことです。

「堅い芯」とは、ものごとをきちんと見ていける眼を持てることだと思うのです。

かたさとやわらかさが一見矛盾する「枝と葉」ですが、
仏教の教えにも「金剛心(こんごうしん)」と「柔軟心(にゅうなんしん)」という心の在り方が出てきます。
正反対の事ですが、同じ心なのです。金剛心でありながら柔軟心なのです。

いったいどういうことなのかというと、
先ほどの「枝と葉」の関係と似ています。

金剛心は、自分の歩むべく方向がきちんと見えていて、
状況に惑わされない心。
その硬さが金剛、すなわちダイヤモンドにたとえられたものです。

柔軟心は、教えを素直に聞いていける心。
ありのまま、に耳を澄ますことができる心、といってもよいでしょう。

いずれも、自分が努力して起こせる心ではありません。
「ほんとうのこと(事実)」に触れて、
惑わされずに歩めるようになったり、耳を澄ますことができるようになったりする。
そのような心をいただくこと。「いただきもの」の心です。

堅い心と柔らかい心。
その奥には、「ほんとうのこと」はどうなのか、が見えている、
そんな芯があって、二つの面を持ち合わせることができるのでしょう。

12月8日は、お釈迦さまが、私たちのいのちの道理、
縁によって成り立ついのちという、「ほんとうのこと」を見つけられた日です。







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Posted by 明行寺住職 at 17:47│Comments(0)法話
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