2015年03月31日
御開帳によせて…親鸞聖人と善光寺
御開帳によせて…親鸞聖人と善光寺
善光寺さんの御開帳に向けてムードが高まってきました。
当明行寺は善光寺さんまで歩いて10分程の場所にあるので、
周辺の店舗が改装されてきれいになったことや、
参道となる中央通りが石畳で舗装されたこと、
ベンチや植栽、案内表示板などが整備されたことなどを、
歩いていて実際に目にしますので、御開帳が近づく雰囲気を感じます。
明行寺は御開帳に直接関係して何か行事があるわけではありませんが、
私にとっては、日頃地域の住民としてごく身近な存在の善光寺さんについて、
あらためて学ぶ機会になります。
というのも、やはり、親鸞聖人と善光寺さんの関わりがあるからです。
今回はそのことを少しご紹介します。
善光寺さんの御開帳に向けてムードが高まってきました。
当明行寺は善光寺さんまで歩いて10分程の場所にあるので、
周辺の店舗が改装されてきれいになったことや、
参道となる中央通りが石畳で舗装されたこと、
ベンチや植栽、案内表示板などが整備されたことなどを、
歩いていて実際に目にしますので、御開帳が近づく雰囲気を感じます。
明行寺は御開帳に直接関係して何か行事があるわけではありませんが、
私にとっては、日頃地域の住民としてごく身近な存在の善光寺さんについて、
あらためて学ぶ機会になります。
というのも、やはり、親鸞聖人と善光寺さんの関わりがあるからです。
今回はそのことを少しご紹介します。
親鸞聖人(1173~1262)は、35歳のとき、専修念仏への弾圧により越後へ流罪となり、
その後、関東に向かわれました。
どのようなルートであったのか文献史料はありませんが、
伝承や周辺の資料から、善光寺に立ち寄られたと考えられています。
善光寺にはその「痕跡」が遺されています。
親鸞松(親鸞聖人お花松)
びんずる尊者像と妻戸(舞台)の間に一本の松がお供えされています。
妻戸は踊り念仏の舞台の名残といわれていますが、
不断念仏衆といって、念仏を唱えながら本尊の周りを回る僧の、
詰所のようなところであったとも考えられています。
比叡山で親鸞聖人がどのように過ごされたのか史料がほとんどありませんが、「堂僧」だったとされています。
当時、比叡山の僧は学問・修行に専念する「学生(がくしょう)」と、
管理運営にあたる「堂衆」に大別されていました。
その中で「堂僧」は先の不断念仏衆のようであったとも、お堂の世話役であったとも諸説あります。
親鸞聖人がお堂の管理に携わっていたとするならば、
お花のお供えも受けもっておられたと考えられます。
かつて「堂僧」であった親鸞聖人が善光寺に滞在された折、仏前の花として松をお供えした名残といわれています。
爪彫如来
親鸞聖人が彫ったとされる阿弥陀如来像で、
本堂から西、歴代の回向柱が立てられている場所の近くにあるお堂に安置されています。
「眼病を救ってくださる」といわれ、「目」の字をたくさん書いた紙が扉に結ばれています。
奇蹟的な話です。
いわゆる迷信には惑わせられないことを掲げる真宗門徒としてはどう受け止めるべきでしょうか。
各地に伝わる親鸞聖人の伝説・伝承は、
例えば、上越に伝わる「七不思議」には、
「焼いた鮒を池に放ったら生き返った」、
「聖人が桜の木にお数珠をかけたら、お数珠の房のように長く垂れ下がって花が咲くようになった」、
という、現実には起こりえないことが語られています。
けれどもそれは、親鸞聖人との出遇いの大きさをそのような形で表現したのではないか、と考えられます。
爪彫如来の「眼病を救う」とは、あくまで私個人の解釈ですが、
「心の眼が開く」ということではないか、と思っています。
堂照坊の笹字の名号
親鸞聖人は堂照坊に滞在されたと伝えられています。
ここから戸隠に向かう途中、笹の葉で「南無阿弥陀仏」形作り、
それを写し書きした「笹字の名号」と、「聖人の歯」と伝えられるものが遺されています。
おわりに。
御開帳といえば「回向柱」です。
「秘仏」とされるご本尊に代わって安置されている「前立本尊」を、
御開帳時には拝むことができ、またその御手と「善の綱」でつながれた「回向柱」が立てられます。
回向とは阿弥陀如来の徳が衆生にさし向けられることです。
その徳とは、一言で言いきれるものではありませんが、
あえて言えば、私の目の前にある事実に目覚める、事実にうなづける、ということです。
回向柱に触れなくても、いつでも、目覚めてほしいと、
いのちの方から私たちに、よびかけがあるのです。
無理したら、体がしんどい、というのもメッセージです。
「真宗門徒としての御開帳への参詣のしかた」などというものはありませんが、
御開帳をきっかけに、真宗の教えを確かめるとすれば、こういうことでしょうか。
阿弥陀如来の徳がいつでも、私たちに向けられていることを、回向柱に触れてあらためて、確める。
そして、その徳は「(私に都合の)いいことがありますように」ではなくて、
「ほんとうのこと、に目覚めてくださいね」ということではないでしょうか。
大勢の参詣者の姿に、様々な人がいて、様々な出来事に出遇っていくことを、
想いながら確かめたいことです。
参考 『親鸞』真宗教団連合(朝日新聞出版)
『善光寺まいり』五来 重(平凡社)
『信州善光寺公式HP』善光寺
その後、関東に向かわれました。
どのようなルートであったのか文献史料はありませんが、
伝承や周辺の資料から、善光寺に立ち寄られたと考えられています。
善光寺にはその「痕跡」が遺されています。
親鸞松(親鸞聖人お花松)
びんずる尊者像と妻戸(舞台)の間に一本の松がお供えされています。
妻戸は踊り念仏の舞台の名残といわれていますが、
不断念仏衆といって、念仏を唱えながら本尊の周りを回る僧の、
詰所のようなところであったとも考えられています。
比叡山で親鸞聖人がどのように過ごされたのか史料がほとんどありませんが、「堂僧」だったとされています。
当時、比叡山の僧は学問・修行に専念する「学生(がくしょう)」と、
管理運営にあたる「堂衆」に大別されていました。
その中で「堂僧」は先の不断念仏衆のようであったとも、お堂の世話役であったとも諸説あります。
親鸞聖人がお堂の管理に携わっていたとするならば、
お花のお供えも受けもっておられたと考えられます。
かつて「堂僧」であった親鸞聖人が善光寺に滞在された折、仏前の花として松をお供えした名残といわれています。
爪彫如来
親鸞聖人が彫ったとされる阿弥陀如来像で、
本堂から西、歴代の回向柱が立てられている場所の近くにあるお堂に安置されています。
「眼病を救ってくださる」といわれ、「目」の字をたくさん書いた紙が扉に結ばれています。
奇蹟的な話です。
いわゆる迷信には惑わせられないことを掲げる真宗門徒としてはどう受け止めるべきでしょうか。
各地に伝わる親鸞聖人の伝説・伝承は、
例えば、上越に伝わる「七不思議」には、
「焼いた鮒を池に放ったら生き返った」、
「聖人が桜の木にお数珠をかけたら、お数珠の房のように長く垂れ下がって花が咲くようになった」、
という、現実には起こりえないことが語られています。
けれどもそれは、親鸞聖人との出遇いの大きさをそのような形で表現したのではないか、と考えられます。
爪彫如来の「眼病を救う」とは、あくまで私個人の解釈ですが、
「心の眼が開く」ということではないか、と思っています。
堂照坊の笹字の名号
親鸞聖人は堂照坊に滞在されたと伝えられています。
ここから戸隠に向かう途中、笹の葉で「南無阿弥陀仏」形作り、
それを写し書きした「笹字の名号」と、「聖人の歯」と伝えられるものが遺されています。
おわりに。
御開帳といえば「回向柱」です。
「秘仏」とされるご本尊に代わって安置されている「前立本尊」を、
御開帳時には拝むことができ、またその御手と「善の綱」でつながれた「回向柱」が立てられます。
回向とは阿弥陀如来の徳が衆生にさし向けられることです。
その徳とは、一言で言いきれるものではありませんが、
あえて言えば、私の目の前にある事実に目覚める、事実にうなづける、ということです。
回向柱に触れなくても、いつでも、目覚めてほしいと、
いのちの方から私たちに、よびかけがあるのです。
無理したら、体がしんどい、というのもメッセージです。
「真宗門徒としての御開帳への参詣のしかた」などというものはありませんが、
御開帳をきっかけに、真宗の教えを確かめるとすれば、こういうことでしょうか。
阿弥陀如来の徳がいつでも、私たちに向けられていることを、回向柱に触れてあらためて、確める。
そして、その徳は「(私に都合の)いいことがありますように」ではなくて、
「ほんとうのこと、に目覚めてくださいね」ということではないでしょうか。
大勢の参詣者の姿に、様々な人がいて、様々な出来事に出遇っていくことを、
想いながら確かめたいことです。
参考 『親鸞』真宗教団連合(朝日新聞出版)
『善光寺まいり』五来 重(平凡社)
『信州善光寺公式HP』善光寺
Posted by 明行寺住職 at 15:06│Comments(0)
│法話
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