2015年02月01日
宗教には無理強いということは禁物
宗教には無理強いということは禁物
「宗教には無理強いということは禁物」 『コーラン』2章257節
参考:『イスラームのこころ真宗のこころ』狐野利久 法蔵館
※以下、イスラム教に関する事柄は上記を参考に引用しています。
「イスラム国」による人質事件は、仏教徒である私にとって、
「あれは自分の信仰する宗教とは違うから」と言ってはいられないものを感じます。
人質の安否は勿論ですが、宗教に携わる者として不安になることがあります。
一つは「イスラム教がこわい宗教」だと思われることです。
イスラム過激派によるテロ行為や戦闘はひどいものですが、
それがそのままイスラム教のイメージになってしまうのは悲しいことです。
歴史的にみても、イスラム教はもともと穏健な宗教で、
10世紀から13世紀に西洋諸国が武力により他国を制圧したのに対し、
イスラム教は支配地においても、ジズヤ(人頭税)を払えば、信仰や財産など保障していたようです。
「コーランか剣か」(イスラム教に改宗するか、死ぬか)という無理強いは無かったようで、
よほど極端な指導者の場合にまれにあったのではないか、ということのようです。
また、女性のスカーフ着用にみられるように生活様式にも厳格なきまりがあるイメージがありますが、
生活様式の「ゆるい」地域の信徒の方がより主体的に信仰しているという話を、イスラム専門家の講演で聞いたことがあります。
「宗教には無理強いということは禁物」 『コーラン』2章257節
参考:『イスラームのこころ真宗のこころ』狐野利久 法蔵館
※以下、イスラム教に関する事柄は上記を参考に引用しています。
「イスラム国」による人質事件は、仏教徒である私にとって、
「あれは自分の信仰する宗教とは違うから」と言ってはいられないものを感じます。
人質の安否は勿論ですが、宗教に携わる者として不安になることがあります。
一つは「イスラム教がこわい宗教」だと思われることです。
イスラム過激派によるテロ行為や戦闘はひどいものですが、
それがそのままイスラム教のイメージになってしまうのは悲しいことです。
歴史的にみても、イスラム教はもともと穏健な宗教で、
10世紀から13世紀に西洋諸国が武力により他国を制圧したのに対し、
イスラム教は支配地においても、ジズヤ(人頭税)を払えば、信仰や財産など保障していたようです。
「コーランか剣か」(イスラム教に改宗するか、死ぬか)という無理強いは無かったようで、
よほど極端な指導者の場合にまれにあったのではないか、ということのようです。
また、女性のスカーフ着用にみられるように生活様式にも厳格なきまりがあるイメージがありますが、
生活様式の「ゆるい」地域の信徒の方がより主体的に信仰しているという話を、イスラム専門家の講演で聞いたことがあります。
二つ目は、「イスラム教がこわい」というイメージがそのまま、「宗教はこわい」ということにつながることです。
宗教教団や宗教の名が出てくる戦争や事件が起こるといつも不安になります。
教えが原因で起こる戦争や事件は無い、と言いたいところです。
大半は自分の都合が原因ではないでしょうか。
宗教の方が後から理由として引き合いに出されています。
自分の思いは強いもので、自分でもなかなか気付けないものです。
それゆえに、教えを聞き違えてしまうことがあり、
宗教の名のもとに引き起こされる事件の原因になっているのは悲しいことです。
また、「宗教はあまり熱心になりすぎると、一つの考え方に陥り、周りが見えなくなる」
というイメージがあります。
「宗教にハマる」「宗教みたい」…という言い方がそれを表しています。
一神教というと「一つの教えだけにこだわることの怖さ」がよく語られます。
内面の大切な事柄と紙一重のところです。
宗教だけではありませんが、自分の「よりどころ」とするものは、
内面的なことだけに、他の人には見えにくいものです。
その人の生い立ち、生活状況、悩み…といったことをとおして、よりどころを確かめていきますが、
人それぞれの背景がありますので、簡単には「みんな一緒」と言えないものです。
その人の「よりどころ」が、その人にとってどんな意味を持つのか、どれだけの重さを持つのかは、
他の人には分かりにくいことです。
その意味で、その人にとっての「よりどころ」はただ一つ、といえます。
他の教えはダメ、ということではなくて、私にとって一つ、ということです。
「さらに餘(余)の方へこころをふらず」(他の仏菩薩等に心をふりむけることなく)
と蓮如上人の『御文』にありますが、その後に、
「たとひ罪業は深重なりとも」(たとえ罪は重く深い わが身 であっても)
と、自分の身のありさまが語られます。
「この教え以外は認めない」と言っているのではなく、このような自分自身であるから、
よりどころとする教えは一つ、ということです。
逆に言えば、教えを聞くほどに、自分自身が見えてこなくてはいけません。
「宗教にハマる」というのは、どこかで聞き違えている有り様です。
内面の大切なこととしての「よりどころ」を考えたとき、
フランスのテロ事件の発端となった風刺画の問題は、
表現の自由は勿論ですが、一方で人の内面の微妙さに思いをいたらせなくてはならないと感じることです。
蓮如上人が前述の『御文』をお書きになられたのも、教えの聞き方、とらえ方の問題が出てきていたからです。
コーランには冒頭の言葉があるそうですが、無理強いをしない、とは、
『御文』と同じく、内面の大切さと教えの聞き方を伝えているように思います。
「イスラム国」の事件は、不安を感じるだけではなく、
私自身の「教えの聞き方」を問う出来事になりました。
宗教教団や宗教の名が出てくる戦争や事件が起こるといつも不安になります。
教えが原因で起こる戦争や事件は無い、と言いたいところです。
大半は自分の都合が原因ではないでしょうか。
宗教の方が後から理由として引き合いに出されています。
自分の思いは強いもので、自分でもなかなか気付けないものです。
それゆえに、教えを聞き違えてしまうことがあり、
宗教の名のもとに引き起こされる事件の原因になっているのは悲しいことです。
また、「宗教はあまり熱心になりすぎると、一つの考え方に陥り、周りが見えなくなる」
というイメージがあります。
「宗教にハマる」「宗教みたい」…という言い方がそれを表しています。
一神教というと「一つの教えだけにこだわることの怖さ」がよく語られます。
内面の大切な事柄と紙一重のところです。
宗教だけではありませんが、自分の「よりどころ」とするものは、
内面的なことだけに、他の人には見えにくいものです。
その人の生い立ち、生活状況、悩み…といったことをとおして、よりどころを確かめていきますが、
人それぞれの背景がありますので、簡単には「みんな一緒」と言えないものです。
その人の「よりどころ」が、その人にとってどんな意味を持つのか、どれだけの重さを持つのかは、
他の人には分かりにくいことです。
その意味で、その人にとっての「よりどころ」はただ一つ、といえます。
他の教えはダメ、ということではなくて、私にとって一つ、ということです。
「さらに餘(余)の方へこころをふらず」(他の仏菩薩等に心をふりむけることなく)
と蓮如上人の『御文』にありますが、その後に、
「たとひ罪業は深重なりとも」(たとえ罪は重く深い わが身 であっても)
と、自分の身のありさまが語られます。
「この教え以外は認めない」と言っているのではなく、このような自分自身であるから、
よりどころとする教えは一つ、ということです。
逆に言えば、教えを聞くほどに、自分自身が見えてこなくてはいけません。
「宗教にハマる」というのは、どこかで聞き違えている有り様です。
内面の大切なこととしての「よりどころ」を考えたとき、
フランスのテロ事件の発端となった風刺画の問題は、
表現の自由は勿論ですが、一方で人の内面の微妙さに思いをいたらせなくてはならないと感じることです。
蓮如上人が前述の『御文』をお書きになられたのも、教えの聞き方、とらえ方の問題が出てきていたからです。
コーランには冒頭の言葉があるそうですが、無理強いをしない、とは、
『御文』と同じく、内面の大切さと教えの聞き方を伝えているように思います。
「イスラム国」の事件は、不安を感じるだけではなく、
私自身の「教えの聞き方」を問う出来事になりました。
Posted by 明行寺住職 at 12:20│Comments(0)
│法話
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