2014年12月31日

縁起の「今」に目覚める…本来に立ち返る

縁起の「今」に目覚める…本来に立ち返る

先日、テレビで「世界のニセジャパンを成敗」という内容の番組をやっていました。
近年、和食や演歌など日本発のものが海外でブームになっていますが、
中には日本のそれとは大違いの「ニセジャパン」もあるようです。
その道のプロが「本来はこういうものだ」と「成敗」しに行く企画でした。縁起の「今」に目覚める…本来に立ち返る


たまたま見たコーナーは、アリゾナ州のすし店を取り上げていました。
スシに激辛ソースをかけたり、炎で包んで出すなど、
日本の本来の寿司を食べている者からすれば、およそ寿司とは言えない食べ物です。
これが寿司として提供されていると知れば、本物はそうではないと言いたくなります。
しかし、現地の人の味覚に合わせたものとしてアレンジされていくとしたら、
それもまた一つの進化であり広まりである、という見方もできなくはありません。

というのも、仏教もお釈迦様誕生の地であるインドと日本では、別の宗教ではないかと思えるくらい違います。
日本で仏教に携わる身としては、「本場インドと違うではないか」と言われたら困るわけです。
タイやベトナム、中国、台湾、日本、それぞれ僧侶の姿かたちやふるまいが異なりますし、
社会の中での位置も様々です。
映画『ビルマの竪琴』のようなオレンジの衣をまとっている国もありますし、
グレーの衣の国、日本のように黒の衣の国もあります。
僧侶は結婚しないで独身でいる国もあれば、日本のように結婚している僧侶がいてもおかしく思われない国もあります。
明行寺の所属する真宗大谷派のように有髪の女性住職が存在する宗派もあります。
特に浄土真宗は髪の毛も伸ばしていますし、お釈迦様から最も遠い宗派のイメージを持たれてもしかたありません。

仏教はその土地の文化と交わりながら広まっていった経緯があります。
ですから、日本の仏教なら、神道や儒教の影響も少なからず受けています。
また、平安時代までは中国仏教をそのまま取り入れたものでしたので、
中国独特の解釈も入ってきています。

なんだか、かのアリゾナ州のすし店のようでもありますが、
それでも寿司だと言えるのか否かと同様に、
これだって仏教と言えるのか…。
それは、やはり原点を見失っていないかどうかによります。

歴史の授業など一般に鎌倉時代の仏教というと、
親鸞聖人をはじめ法然上人や道元禅師が新たな教えをおこしたとされますが、
むしろ、本来に立ち戻ろうとしたというものです。
仏教本来の、ものごとはさまざまな「縁」によって成り立っている、という教えが、
インドの他の宗教一般である「輪廻の思想」に影響されて変質し、それが密教となって広まっていきました。
そして当時の日本における伝統的な仏教教団は密教化し、加持祈祷が中心となっていましたが、
それに疑問を感じて比叡山を下りられたわけです。

いずれは命を終えていく身として、また、まわりの環境やその時々の価値観により、
振り回され煩わされる身として、どこへ向かって歩んでいくか、という悩みを悩み抜いて比叡山を下りられました。
そんなわが身は、「自分で自分はこうである」と思いこんでいる身、
つまり、まず自分があって、それからご縁をいただくと思っている。
そうではなくて、たくさんの縁の中に今の自分がある、ということが仏教の原点です。
そこに立ち戻られようとしました。

お釈迦様の時代から約1600年経った、インドからも遠く離れた日本で、
原点に立ち返ろうとされたのです。
形はかなり異なりますが、教えはいつでも、どこでも、誰にでも、同じです。
お釈迦様と全く同じ形を求めるのでなく、お釈迦様によって示されたところを、
求められたといってもよいでしょう。

(お釈迦様と阿弥陀如来はどう違うのかは、また別の機会にお話したいと思います)


さて、そんな本来の仏教を求めた法然上人と親鸞聖人ですが、
伝統的な仏教教団からは、本来ではない、と「成敗」されます。
念仏弾圧とは、そのような出来事です。
また、浄土真宗の教団も、時には教えを自分に都合よく解釈したり、
時流に流されたり、ということがありました。
都度、本来に立ち戻ろうとすることにより、乗り越えて来た歴史があります。

その歴史を思うとき、では現状はどうだろうかと、ギクリとさせられます。
こんにちでは、仏教以外にも「いのち」や「生き方」が語られます。
仏教本来に立ち戻るならば、今の私を、縁起する中での「今」として受け取れる、
そのことに目覚める、ということかと思います。

寺を預かる身として、そんな「ギクリ」が大切だと感じています。
本年もよろしくお願い申し上げます。

            参考 小川一乗『親鸞と大乗仏教』『慈悲の仏道』いずれも 法蔵館



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Posted by 明行寺住職 at 11:44│Comments(0)法話
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