2014年11月30日
我行精進 忍終不悔 高倉健さん座右の銘
我行精進 忍終不悔 高倉健さん座右の銘
先月亡くなられた高倉健さんの座右の銘は、
「往く道は精進にして 忍びて終わり悔いなし」
でした。
健さんのストイックなイメージに重なるところが大きいのですが、
『大無量寿経』という経典の中にある『嘆仏偈』という、
仏を讃える偈文(形式のととのった文…うた)の言葉です。
菩薩が仏を讃嘆する言葉です。
原文は、
「仮令身止諸苦毒中 我行精進忍終不悔」
読み下しは、真宗大谷派の聖典では、
「たとい、身をもろもろの苦毒の中(うち)に止(おわ)るとも、我が行、精進にして 忍びて終(つい)に悔いじ。」
意味は、
「たとえ、苦毒に満ちた世の中に身を置き、そして終えるとしても、最後まで精進し、悔いることはないだろう」
これは私の拙い意訳です。
俳優としても人間としても精進された健さんの生きざまのようでもありますが、
実はこれ、誰にでもかけられている願いの言葉です。
先月亡くなられた高倉健さんの座右の銘は、
「往く道は精進にして 忍びて終わり悔いなし」
でした。
健さんのストイックなイメージに重なるところが大きいのですが、
『大無量寿経』という経典の中にある『嘆仏偈』という、
仏を讃える偈文(形式のととのった文…うた)の言葉です。
菩薩が仏を讃嘆する言葉です。
原文は、
「仮令身止諸苦毒中 我行精進忍終不悔」
読み下しは、真宗大谷派の聖典では、
「たとい、身をもろもろの苦毒の中(うち)に止(おわ)るとも、我が行、精進にして 忍びて終(つい)に悔いじ。」
意味は、
「たとえ、苦毒に満ちた世の中に身を置き、そして終えるとしても、最後まで精進し、悔いることはないだろう」
これは私の拙い意訳です。
俳優としても人間としても精進された健さんの生きざまのようでもありますが、
実はこれ、誰にでもかけられている願いの言葉です。
この『嘆仏偈』につながる物語のあらすじを、ごくごく大雑把に言えば…、
争いのない世の中を願う国王が、
世の中において自在である「世自在王仏」という仏(目覚めた人)のもとで、
修行に励む「法蔵菩薩」という菩薩となり、
どのような国をつくるか、参考にたくさんの国の様子を見せてもらいます。
そして長い時間をかけて理想の国の姿を考え、
実現する願いをおこし、誓いを立てられました。
詳しくはこちらを参照ください。
真宗大谷派 名古屋教区第30組HP
http://www.nagoya30.net/study/sutra/tanbutuge.html
その誓いの堅さが語られた言葉です。
原文・訳、それぞれ末尾にあります。
物語に託して語られることはなんでしょうか。
私たちが本当に安心して生きていけるためには、
自分一人だけの問題が解決しても安心できません。
世の中すべてが本来のあるべく姿になる必要があります。
だから、「どんな国にしたいか」「どんな『つながり』を生きるか」、が語られるのです。
物語の「登場人物」である法蔵菩薩は、
私たちの心の奥底にある、人間として生を全うしたいという、「いのち」そのものの願いを、
擬人化したものです。
長い時間をかけて、どんな国をつくるか考えられた、ということは何を表わしているのでしょうか。
人類の長い歴史の中での出来事を振り返らなくてはならない、ということです。
私たちは心の奥底から、そんな「いのち」自身の誓いに呼びかけられているのです。
「いのち」は、私たちの不摂生にもめげずに、一生懸命に、
私たちが寝ている時も、心臓をはじめ身体のあちこちを動かしています。
また、私たちが誤ったことをしてしまっても、「良心の呵責」というような形で、
心に訴えかけてきます。
それは、「つながり」の中でしか生きられない私たちが、
「つながり」を断とうとしたときに、
「それでは生きられない」と訴えかけているのです。
「つながり」の形を、いのちが「国づくり」として模索しているのです。
「健さん逝去」が伝えられた11月18日、7時のニュースで詳しく見ようとしたら、
「どのような国にしていくのか」と、首相が演説をしていました。
健さんからは、座右の銘として、
「どんなつながりを生きるか」「どんな国に生きるのか」、
という、教えの言葉が遺されました。
争いのない世の中を願う国王が、
世の中において自在である「世自在王仏」という仏(目覚めた人)のもとで、
修行に励む「法蔵菩薩」という菩薩となり、
どのような国をつくるか、参考にたくさんの国の様子を見せてもらいます。
そして長い時間をかけて理想の国の姿を考え、
実現する願いをおこし、誓いを立てられました。
詳しくはこちらを参照ください。
真宗大谷派 名古屋教区第30組HP
http://www.nagoya30.net/study/sutra/tanbutuge.html
その誓いの堅さが語られた言葉です。
原文・訳、それぞれ末尾にあります。
物語に託して語られることはなんでしょうか。
私たちが本当に安心して生きていけるためには、
自分一人だけの問題が解決しても安心できません。
世の中すべてが本来のあるべく姿になる必要があります。
だから、「どんな国にしたいか」「どんな『つながり』を生きるか」、が語られるのです。
物語の「登場人物」である法蔵菩薩は、
私たちの心の奥底にある、人間として生を全うしたいという、「いのち」そのものの願いを、
擬人化したものです。
長い時間をかけて、どんな国をつくるか考えられた、ということは何を表わしているのでしょうか。
人類の長い歴史の中での出来事を振り返らなくてはならない、ということです。
私たちは心の奥底から、そんな「いのち」自身の誓いに呼びかけられているのです。
「いのち」は、私たちの不摂生にもめげずに、一生懸命に、
私たちが寝ている時も、心臓をはじめ身体のあちこちを動かしています。
また、私たちが誤ったことをしてしまっても、「良心の呵責」というような形で、
心に訴えかけてきます。
それは、「つながり」の中でしか生きられない私たちが、
「つながり」を断とうとしたときに、
「それでは生きられない」と訴えかけているのです。
「つながり」の形を、いのちが「国づくり」として模索しているのです。
「健さん逝去」が伝えられた11月18日、7時のニュースで詳しく見ようとしたら、
「どのような国にしていくのか」と、首相が演説をしていました。
健さんからは、座右の銘として、
「どんなつながりを生きるか」「どんな国に生きるのか」、
という、教えの言葉が遺されました。
Posted by 明行寺住職 at 20:34│Comments(0)
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