2014年07月31日
そこに「在る」こと 私の思いを超えて
そこに「在る」こと 私の思いを超えて
長野市内にお住まいの方は、「もううんざり」「ようやく減ってきた」…。
そんな思いでおられるかもしれません。
あるいは、「来年も出るのか」…と。
長野市はじめ、県内各地で発生したマイマイガのことです。
大発生により、初夏の頃は毛虫により葉っぱが食べつくされ、
成虫になったこの夏はあちこちで舞い、いたるところに産卵し、それを落とすのに苦労しています。
幸い、寺の境内では、毛虫は発生せずにすみました。
昨年の今頃、柱に付いた茶色の卵塊を見つけ、何だろうかと思っていると、
少し前まで「蛾」が止まっていた場所にそれがあることがわかりました。
そのうちにテレビ・新聞等でも取り上げられるようになり、
マイマイガとその卵塊と知ったので、卵塊を削り取りました。
本堂の柱の高いところなどは、報恩講の際に幕を張る時に、ついでに取りました。
この「大発生」で二つのことを考えさせられました。
「春までに取らないと、増えて大変」と報道されていましたが、
私はあまり深刻に考えていませんでした。
卵塊の見た目がよくないので取り除いたのが正直なところです。
それも、つれあいがベランダなど、まめに除去していたので、
それならばと私も除去し始めたのです。
そうでなければ、放っておいたかもしれません。
長野市内にお住まいの方は、「もううんざり」「ようやく減ってきた」…。
そんな思いでおられるかもしれません。
あるいは、「来年も出るのか」…と。
長野市はじめ、県内各地で発生したマイマイガのことです。
大発生により、初夏の頃は毛虫により葉っぱが食べつくされ、
成虫になったこの夏はあちこちで舞い、いたるところに産卵し、それを落とすのに苦労しています。
幸い、寺の境内では、毛虫は発生せずにすみました。
昨年の今頃、柱に付いた茶色の卵塊を見つけ、何だろうかと思っていると、
少し前まで「蛾」が止まっていた場所にそれがあることがわかりました。
そのうちにテレビ・新聞等でも取り上げられるようになり、
マイマイガとその卵塊と知ったので、卵塊を削り取りました。
本堂の柱の高いところなどは、報恩講の際に幕を張る時に、ついでに取りました。
この「大発生」で二つのことを考えさせられました。
「春までに取らないと、増えて大変」と報道されていましたが、
私はあまり深刻に考えていませんでした。
卵塊の見た目がよくないので取り除いたのが正直なところです。
それも、つれあいがベランダなど、まめに除去していたので、
それならばと私も除去し始めたのです。
そうでなければ、放っておいたかもしれません。
想定外という言葉を見聞きします。
報道に触れると「甘いな…」と当事者を見なしますが、
こういうものなのだろうかと痛感しました。
日頃、行動はともかく、考えることは自由にできると思っているのですが、
思い込みの方が勝ってしまうことがよくわかりました。
さて、このマイマイガ、駆除するときは手袋やゴーグル・マスクをするように言われています。
鱗粉の毒も厄介なものです。
この時期、同じく近寄ってくるとイヤなものに「蚊」もいますが、
「カ」と「ガ」、どちらも迷惑だという話を家族でしていました。
息子が「どちらも、何かの役に立っているのかな?」とつぶやいていました。
およそ何かの天敵として役に立っているようには見えません。
鳥が食べることなどあるのかどうか。
とはいえ、全くいなくなってしまったら生態系に影響があるだろうから、
いるだけの意味はあるのだろう、と説明しました。
でも、自分でもしっくりしない答え方でした。
ともあれ、明行寺のある権堂町というところは、夜の街でもありますから、
照明が多く、マイマイガがたくさん集まります。
迷惑以外の何物でもない、何のためにいるのだろうか、という気持ちになります。
では、人間はどうかと、ふっと思いました。
人類が出現して以来、環境の中ではどんな位置にいるのでしょうか?
環境を悪化させているばかりで、他の生物からすると迷惑な存在なのではないか。
そう思うのです。
他の生き物に対して、人間の役に立つ生き物なのか、迷惑な生き物なのか、
ということなら考えますが、
人間が他の生き物にとってどうかとは、考えることはありませんでした。
そんなことを考えて生まれてきたわけではなく、
気が付いたら、そこにいた、というものです。
思えば、マイマイガも同じことだったのですね。
役に立つか迷惑か、として生きているわけがなく、
とにもかくにもいる、「在る」のです。
先輩が、
「私達はあまりに、『する』(~できる)という価値観に支配されている。
『ある』を回復することが必要」
と述べていました。
だからといってマイマイガに愛着を感じるようにはなりませんが、
多少はお互い様という感覚は持ち合わせられるようになった…とも言えませんが、
そんなことに気付かされた機会にはなりました。
報道に触れると「甘いな…」と当事者を見なしますが、
こういうものなのだろうかと痛感しました。
日頃、行動はともかく、考えることは自由にできると思っているのですが、
思い込みの方が勝ってしまうことがよくわかりました。
さて、このマイマイガ、駆除するときは手袋やゴーグル・マスクをするように言われています。
鱗粉の毒も厄介なものです。
この時期、同じく近寄ってくるとイヤなものに「蚊」もいますが、
「カ」と「ガ」、どちらも迷惑だという話を家族でしていました。
息子が「どちらも、何かの役に立っているのかな?」とつぶやいていました。
およそ何かの天敵として役に立っているようには見えません。
鳥が食べることなどあるのかどうか。
とはいえ、全くいなくなってしまったら生態系に影響があるだろうから、
いるだけの意味はあるのだろう、と説明しました。
でも、自分でもしっくりしない答え方でした。
ともあれ、明行寺のある権堂町というところは、夜の街でもありますから、
照明が多く、マイマイガがたくさん集まります。
迷惑以外の何物でもない、何のためにいるのだろうか、という気持ちになります。
では、人間はどうかと、ふっと思いました。
人類が出現して以来、環境の中ではどんな位置にいるのでしょうか?
環境を悪化させているばかりで、他の生物からすると迷惑な存在なのではないか。
そう思うのです。
他の生き物に対して、人間の役に立つ生き物なのか、迷惑な生き物なのか、
ということなら考えますが、
人間が他の生き物にとってどうかとは、考えることはありませんでした。
そんなことを考えて生まれてきたわけではなく、
気が付いたら、そこにいた、というものです。
思えば、マイマイガも同じことだったのですね。
役に立つか迷惑か、として生きているわけがなく、
とにもかくにもいる、「在る」のです。
先輩が、
「私達はあまりに、『する』(~できる)という価値観に支配されている。
『ある』を回復することが必要」
と述べていました。
だからといってマイマイガに愛着を感じるようにはなりませんが、
多少はお互い様という感覚は持ち合わせられるようになった…とも言えませんが、
そんなことに気付かされた機会にはなりました。
Posted by 明行寺住職 at 19:58│Comments(0)
│法話
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