2014年07月01日

驚きの言葉

驚きの言葉

朝の連続ドラマ「花子とアン」で、
山梨の人が驚くと、「てっ」と言いますね。
甲州弁で驚きを表す言い方だそうですが、
ハッとさせられた感じが、一瞬の発音でありながら、よく伝わってきます。驚きの言葉


そういえば、前々作の「あまちゃん」では、驚きの表現は「じぇじぇじぇ」でした。
方言というのは、感情がよりストレートに伝わります。

驚いた時にその「人となり」が表われる出るように思います。
「わあ!」と大きな声をあげる人、
驚いても、あまり表に出さない人、とさまざまですが、
予期せぬ事が起きたのですから、反応を控えめにしていても、
どこかしら隠せぬものです。

私なども、どちらかというとあまり表に出さない方ですが、
驚いた後、何か置き忘れてきたり、間違えたりしますから、動揺が隠せないものです。
大っぴらに笑って、「ああ驚いた」とか「ごめんごめん」と言える人がうらやましいです。
ストレスをためにくいんだろうなあ、
人付き合いでも、その方がいいんだろうなあ、と思います。

予期せぬこと、経験したことのない感覚に出会った驚き、
それが、真宗でいう「信心」につながることかと思います。
信心というと、「一生懸命に何かを思い込むこと」というイメージがあります。
「イワシの頭も信心」などがそれですが、
そうではなくて、ハッとした後にやってくる、恥ずかしさや気まずさ、申し訳なさ、
それらを自分の有り様として確かめていく心が信心なのだと思います。

「てっ…」と言う程の驚きではなく、「…ああ、そうだったのか…」というような気付きでも、
今までの自分の思い込みが間違っていたと分かったのですから、
その時こそ、本当のことが見えてきます。
じわじわとやってくる「すまない」感情。
ぼにゃりと見えてくる「勘違いしていた自分」「よくわかっていない自分」「不十分な、自分の力」、
しばらく間を置いて思う「そんなハプニングや心に留まった出来事に耳を澄ませていこう」という気持ち。
その過程が「信心を得る」と言ってよいかと思います。

ある先輩が、「真宗は信じる必要がない宗教」と語っておられました。
一見すると、宗教なのに信じなくてよいのだろうか、と思える言葉です。
それを読んでの、僕の受け止めですが、
かたくなに信じるのではなく、
むしろ、いい意味での脱力感が、真宗でいう信心ということかと思います。
そういうと、とても楽そうにみえますが、難しいです。
だって、「こうなるハズ」「こいつはこういうヤツ」というように、
思い込んで頑なになってしまう方が簡単なのですから。

そんないい意味での脱力感を、単なる個人的な体験というだけではなく、
人間誰にでも共通することだと…、
お釈迦様・親鸞聖人が確かめられたことだと…、
重ね合わせて確かめていくことが必要にはなります。
でも、お釈迦様・親鸞聖人が私達を離れた特別なことをおっしゃっているのではないのです。

よい脱力感を伴う驚きを確かめる言葉として、
「てっ」ではなくて、「なむあみだぶつ」があります




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Posted by 明行寺住職 at 09:47│Comments(0)法話
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