2014年05月31日

縁起と縁結び

縁起と縁結び

高円宮家の次女・典子さまと、島根県の出雲大社の神職・千家国麿さんのご婚約内定の報道により、
出雲大社が「縁結びの神様」ということがあらためて注目を集めています。
神道について詳しく知りませんが、テレビ等の解説によると、
出雲大社におまつりされている大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)による「縁結び」とは、縁起と縁結び

男女の縁だけではなく世の中全般の縁を司ることなのだそうです。

よく「縁があって」「縁が無かったもので」という言い方をしますが、
物事が上手くいった場合もそうでなかった場合も、
自分の力だけではなかったと思えた方が精神的にも社会的にもいいですね。
「たまたま、よい巡り合わせで力が発揮できた」と、自分の力をおごることなく謙虚になれますし、
逆に、「この状況では無理もないことだった…」と、落ち込みすぎずにすみます。

近年、「自己責任」や「能力主義」が強調され、
みんなで気を付け合うことやチームで補い合うことが二の次になってきていますから、
そうした点で「縁あって…」ということににもっと目を向けた方がよいのに、と思います。

仏教も「縁」を説きます。
「縁起」…縁によって起こる…が仏教の基本といってもよいでしょう。
神道と微妙に違うのは、
誰かが縁を司るのではない、ということです。
よく「たくさんのご縁をいただいて、私もこんにちここまでやってきました…」
という言い方をしますが、
そのように言う自分自身も「縁」の「集まり」であって、
それがたまたま「自分」になっているわけです。
「私」の方が「縁」より先にあるのではないのです。
子どもの頃、「ボクも○○ちゃんの家に生まれていたらなあ…」
と、違った生活を羨むことがありましたが、
あれは勘違いをしていたのであって、
今の自分がそのまま「○○ちゃんの家」に住むことを前提に発想して羨んでいたのです。
実際に「○○ちゃんの家」に生まれたら、また違った自分に育つのですから、
そこで満足していたかどうかはわかりません。

だから「良い縁・悪い縁」とは言わないのです。
良し悪しは、自分の都合であって、それも、その時の感覚ですから、
先々はわかりません。

また、トラブルに遭うと「どうしてこんな目に遭うのか」と、
原因を探さずにいられません。
例えば、ペンを忘れた原因は…、と考えていくと、
ペンをいつもと違う場所に置いたから、という辺りまではわかりますが、
何故そこに置かざるを得ない状況になったのか、
それは電話がかかってきたからだけれども、あの時電話がかかってきたのは何故か…。
というようにたどっていくと、原因はたくさんありすぎて特定できません。

先輩から教わった言葉に、
「原因はたくさん。結果は一つ」ということがあります。

縁によって起こる、縁起の中に在る自分だからこそ、
原因探しにハマり過ぎず、起こった事実に目をむけよ、
ということが縁起の教えです。

さて、結婚というのも縁ですが、
出遇った二人にはそれぞれ、たどれば長い縁の積み重ねがあります。
「たくさんの縁」という背景を互いに背負った二人が共に暮らしていくのですが、
それだけに、「ケンミンSHOW」のような、カルチャーショックも起こりうるわけです。
真向いにならねばなりません。
…とは、報道を見聞きして思う、私自身に向けた話であります。


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Posted by 明行寺住職 at 09:58│Comments(0)法話
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