2013年11月30日
「山の日」でお盆はどうなる
「山の日」でお盆はどうなる
8月11日を「山の日」に制定するため、
祝日法の改正案が来年の通常国会に提出されるそうですが、
寺に携わる者としては、その趣旨はともかく、お盆への影響が気になるところです。
ここ数年のお盆参りの傾向として、
8月13日よりも前からお参りに来る方が増えています。
暦のめぐりにもよりますが、
今年のように8月10日が土曜日の場合、13日を待たずに10日からのお参りの方が増えます。
日付よりも仕事が休みになる日を選んで行動するのは、やむを得ません。
寺に生まれた僕ですら、外に勤めていた頃は、
仕事の都合でお盆に帰省できずに、家族から「何とかならないか」と、ぼやかれていました。
「お盆休み」の無い職場だったということもありますが、
まだ寺に本格的に携わっていませんでしたから、
無理をしてまで?お盆に帰省するよりも勤務先の仕事の方を優先していました。
8月11日を「山の日」に制定するため、
祝日法の改正案が来年の通常国会に提出されるそうですが、
寺に携わる者としては、その趣旨はともかく、お盆への影響が気になるところです。
ここ数年のお盆参りの傾向として、
8月13日よりも前からお参りに来る方が増えています。
暦のめぐりにもよりますが、
今年のように8月10日が土曜日の場合、13日を待たずに10日からのお参りの方が増えます。
日付よりも仕事が休みになる日を選んで行動するのは、やむを得ません。
寺に生まれた僕ですら、外に勤めていた頃は、
仕事の都合でお盆に帰省できずに、家族から「何とかならないか」と、ぼやかれていました。
「お盆休み」の無い職場だったということもありますが、
まだ寺に本格的に携わっていませんでしたから、
無理をしてまで?お盆に帰省するよりも勤務先の仕事の方を優先していました。
当時はその感覚に疑問を感じませんでしたが、
寺に携わるようになり、上記の傾向に直面して、
お盆の受け止められ方が軽くなったのではないかと感じました。
あるときは、お盆参りにうかがう途中、学校のグラウンドで部活の練習をしているのを見かけて
お盆も「いつもどおり」の日になりつつあることを実感しました。
日付にこだわるよりも各々の都合でお墓参りをすればよいと思うのですが、
皆で集まるためには、ある程度日付に合わせて行動しやすい世の中であることが必要だと思います。
「お盆には友達と遊ぶ約束を入れない」と子ども時代によく言われたことです。
うちが寺だから、というだけではなく、どこの家でもお盆は家族や親戚で過ごす日という認識が社会にあったからです。
お盆のみならず、法事の日に仕事が重なると、仕事の方を優先せざるを得ないということも、最近は見受けられます。
「法要だけ出席して、後のお斎は失礼する」、「定期テストが近いので出られない」…、そんなことが増えました。
今の世の中では止むを得ないことだと思わざるを得ませんが。
こうした傾向は、意識の深いところで、「人の死」や「いのち」の受け止め方にも、
少なからず影響を与えていると思うのです。
法事の日取りの相談を受けていて、
「亡くなった人より生きている者の都合の方が大事ですよね。」
と聞かれたことがあります。
人が集まりやすい日に仏事を勤めるように日程調整するのは必要ですし、
寺としての都合もあります。
ただ、その時思ったのは、軸になるのは「死を通して学ぶ『教え』」ということです。
「死んだ後のこと云々するより、今を大切に生きる」ということは、それは一理あると思います。
けれども、法事で親戚の人たちと、結婚式とはまた違った会話をして、
自分もやがては老いることや亡くなることを学んでいく、
そのことも含めての「今」でなければ、「今」を大切に生きられません。
家族や親戚のつながりの大切さは、そこにあるのだと思います。
もう一つ、
「人の死」は予定が立てられないわけですが、
何を差し置いても、それに駆けつけることが認められていることです。
「忌引き」「服喪休暇」という制度がまだなんとか残っているのは、
かけがえのない家族・親族だからということもあると思いますが、
それは、私たちの「いのち」が、自分の思い通りにならないということを、
みんなの意識の根底で認めてきたということではないでしょうか。
だから、どんなに仕事が忙しい時でも、休むことを認め合ってきたのです。
しかし、どうやらそれもちょっと危ぶまれてきているように思います。
「一大事」より「通常どおりであること」の方が重くなるのは、「いのち」が軽くとらえられる、
と言えないでしょうか。
お盆の直前に休日が入ることで、どんな影響が出るのか、
これは、寺に携わる者の取り組みも問われそうです。
参考:『哲学入門 死ぬのは僕らだ! 私はいかに死に向き合うべきか』
大谷大学文学部教授 門脇 健(角川SSC新書)
寺に携わるようになり、上記の傾向に直面して、
お盆の受け止められ方が軽くなったのではないかと感じました。
あるときは、お盆参りにうかがう途中、学校のグラウンドで部活の練習をしているのを見かけて
お盆も「いつもどおり」の日になりつつあることを実感しました。
日付にこだわるよりも各々の都合でお墓参りをすればよいと思うのですが、
皆で集まるためには、ある程度日付に合わせて行動しやすい世の中であることが必要だと思います。
「お盆には友達と遊ぶ約束を入れない」と子ども時代によく言われたことです。
うちが寺だから、というだけではなく、どこの家でもお盆は家族や親戚で過ごす日という認識が社会にあったからです。
お盆のみならず、法事の日に仕事が重なると、仕事の方を優先せざるを得ないということも、最近は見受けられます。
「法要だけ出席して、後のお斎は失礼する」、「定期テストが近いので出られない」…、そんなことが増えました。
今の世の中では止むを得ないことだと思わざるを得ませんが。
こうした傾向は、意識の深いところで、「人の死」や「いのち」の受け止め方にも、
少なからず影響を与えていると思うのです。
法事の日取りの相談を受けていて、
「亡くなった人より生きている者の都合の方が大事ですよね。」
と聞かれたことがあります。
人が集まりやすい日に仏事を勤めるように日程調整するのは必要ですし、
寺としての都合もあります。
ただ、その時思ったのは、軸になるのは「死を通して学ぶ『教え』」ということです。
「死んだ後のこと云々するより、今を大切に生きる」ということは、それは一理あると思います。
けれども、法事で親戚の人たちと、結婚式とはまた違った会話をして、
自分もやがては老いることや亡くなることを学んでいく、
そのことも含めての「今」でなければ、「今」を大切に生きられません。
家族や親戚のつながりの大切さは、そこにあるのだと思います。
もう一つ、
「人の死」は予定が立てられないわけですが、
何を差し置いても、それに駆けつけることが認められていることです。
「忌引き」「服喪休暇」という制度がまだなんとか残っているのは、
かけがえのない家族・親族だからということもあると思いますが、
それは、私たちの「いのち」が、自分の思い通りにならないということを、
みんなの意識の根底で認めてきたということではないでしょうか。
だから、どんなに仕事が忙しい時でも、休むことを認め合ってきたのです。
しかし、どうやらそれもちょっと危ぶまれてきているように思います。
「一大事」より「通常どおりであること」の方が重くなるのは、「いのち」が軽くとらえられる、
と言えないでしょうか。
お盆の直前に休日が入ることで、どんな影響が出るのか、
これは、寺に携わる者の取り組みも問われそうです。
参考:『哲学入門 死ぬのは僕らだ! 私はいかに死に向き合うべきか』
大谷大学文学部教授 門脇 健(角川SSC新書)
Posted by 明行寺住職 at 19:39│Comments(0)
│法話
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