2013年05月31日

シャクヤクの芽

シャクヤクの芽

シャクヤク(芍薬)の花を見かける季節になりました。
まあるいつぼみを見ると、小学校5・6年生の頃に初めて見たことを思い出します。

初夏のある日、境内の築山に、
地面からだいぶ伸びて先端につぼみらしいものを付けた芽を見つけました。
やがてそのつぼみが大きくなってきたので、
いったいどんな花が咲くのか楽しみに待っていました。

ボタンとよく似た花が咲きまいて、それがシャクヤクと初めて知り、
ついでに「立てば芍薬、座れば牡丹」という言葉も教わりました。

それにしても、どうして今まで見たことがなかったのだろうかと不思議に思いました。
「築山に上がると、木に負担がかかる」と、よくおこられたものですが、
それほどよく上がった場所に、それまではシャクヤクの花を見たことが無かったのです。
どうやら家族の誰かが知らずに芽を摘んでしまったのでしょう。
僕のおじいちゃんは、草取りをこまめにしていた人で、
今でもその姿が門徒さんの印象に残っているくらいです。
その、こまめな草取りのために、ちょっと残しておいてもいいような花でも、
すぐ取ってしまうようなことがありました。

いや、そう勝手に決め付けている僕が、踏んでしまっていたのかもしれません。
何度叱られても、築山に上がって遊んでいましたから。

たまたま、その年はおじいちゃんがシャクヤクの芽を見逃していたのか、
あるいは僕に踏まれずにいたのでしょう。
そんなことを思い出しながらシャクヤクを見ていると、ふと、思いました。

もう小学校高学年となった子どもたちに、僕はどう接しているだろうか、ということです。
育て方によっては、花を咲かせるであろうところを、知らずに芽を摘んでいるのではないか、と。
ちょっとした一言や態度で、伸びるものをダメにしてしまっていないか、ということです。

忙しいとき、自分のことで精一杯のとき、待てないとき。気が回らないものです。
ついうっかり言ってしまった、とか、聞き逃してしまった、なんてことがあります。
あるいは、こちらが何かにとらわれていたり、偏りがあったりすると、
余計なことを言ってしまったり、いらないことをしてしまったりします。

よかれと思いつつ、しなくていいことを、ついつい、やってしまいます。
なかなか、そのことに気付けないのが、なお、やっかいです。
そんな自分を映す鏡が、教えを説いた物語である「お経」です。


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Posted by 明行寺住職 at 11:26│Comments(0)法話
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