2008年06月30日

ゆとり を生む 違いの幅

ゆとり を生む 違いの幅
ゆとり を生む 違いの幅

子どもを連れて郊外の大きな公園に遊びに行ったときのこと。
そこには、同じ世代の親達が大勢、同じように子どもを連れて来ているわけですが、
その光景の何だか気恥ずかしいというのか、おかしな感じというのか…。
言うならば鏡を見ているようなもの。当然ですが、似たような人たちばかり。
私たち夫婦と同じ、「今どきの親」があちこちにいます。
そして、自分たちのことを棚に上げて、
「今時の親は頼りない感じだなあ、あんなふうで大丈夫かなあ」などと、つい思ってしまいました。
それにしても、幼い頃の記憶にある自身の親たちは、もっとしっかりしていて、
また、「おじさん・おばさん」の雰囲気そのものだったなあ、などと、随分と違いを感じます。

私の世代は「親になった」というより、その前に「一応」を付けた方が合うようです。「一応、親なんだけど」と。
服装も生活のスタイルも、独身時代のものをそれほど捨てずに過ごしていられるようになったからでしょうか。
所帯を持つことで身の振り方を少しあらためるという、そんな「一線」を持たずにいられるのが、
どこか表情や雰囲気に表れているのかもしれません。
「自分もあんな感じに見えるのだろうなあ」と同世代の親とその子どもたちの群れを見ながら、
「今時の親は…」と言われても仕方ないものを、そこに感じます。
同世代は、どことなく似たりよったりの雰囲気。
回りと同じ様にすることを意識し、同じモノを追い、
同じ価値観の進路指導を受けて育ち、その先にはだいたい同じ方向の生活設計を目標としてきた世代です。
(この価値観はバブルとともに崩壊してしまいましたが、その切なさもおそらく共通して持っています)
ただ、その「回りと同じように」やってきたことも、前述の頼りなく見えることの一因かもしれません。
私の親世代は○○君のお母さん、○○さんのお父さん、それぞれもっと雰囲気が違っていたように思います。
そんないろんな人がいるのが、「世の中」であり「大人たち」だったでのはないでしょうか。

先月の門徒総会の記念講演は清水眞砂子先生でしたが、
お話の中で、―かつては親戚の家に泊まりがけで行ったりして、親以外のおじさん・おばさんの話を聞いたりするなど、
自分の両親以外の大人に接する機会があったけれども、現在はそういったことがほとんど無い。
その結果、両親以外の大人を知らず、あとはテレビのタレントくらいなのではないか―ということを挙げておられました。

その傾向はあると感じます。

親は、自分たちは「ふつうに育てている」「ふつうにやっている」「ふつうの価値観」と思っていますが、
どんな親も「偏っていて」「極端」というのが本当のところ―というお話をどこかで読んだことがあります。
子育てなどは、特にそうですね。
そんなことはない、「ふつう」にやってる、と思いたい気持ちになりますが、そうではないのでしょうね。
私ならば、朝の支度や風呂上がりなど、子どもがなかなか言うことを聞かないでイライラしてしまう場面でも、
人によっては子どもを上手に促して、取りかからせてしまう、そんな時に、自分の「狭さ」を感じます。
誰でも、どこかしらに良くも悪くもこだわりがあって、自分一人や夫婦だけでは、きゅうくつになりがちです。
だから、いろんな人との関わっていくことの大切さがそこにあるのでしょう。

さて、親としての私たちの世代はどうか。
経済格差は広がっているというものの、私の親世代に比べればよほど平均化しているのでしょう。
同世代の間で見れば、親として、自分も他の人も、ある面ではそう大きく違わない時代ではないかと思います。
そういう意味では、先程と逆を言うようですが、割と皆「ふつう」なのです。
けれども、それはそのまま、同世代みんなが「ふつう」に「偏っている」のだとしたら、困ったことです。
でも、どうやらそうなのではないかと、思わざるを得ません。
「受験競争」で育った我が世代は、それがそのまま、
「『より良い子育て』競争」「『しつけ』競争」の時代に入ったのでは、と感じることがあります。
何が「良い」子育てで、何が「きちんとした」しつけなのか、問い直しもしないで、です。

子どもに限らず、のびのびとできる、というのは、人に幅があるときでしょう。
一人の人間の幅、ということもありますが、人と人との違いの幅、というのも、のびのびするには必要です。
違いの幅が認められてこそ、「ゆとり」ができるのでしょう。

「均質化」した私の世代は、人と人の違いの幅があまりない。
そんな意味では同世代間も、その子どもも「きゅうくつ」かもしれません。
なかなか、そのきゅうくつを解消するのは難しそうです。

解消のカギは、やはり、価値観の違う人に出会ったとき、でしょうか。

私ども夫婦(と子ども)にとって、もっとも身近で、ちょくちょく「価値観が違うなあ」と感じるのは、私の両親(笑)。
我が家は寺ということでそうなっている訳ですが、
当然ながら父母と私や妻では価値観が違います。
時にやっかいなものですが、その違いの幅が、
子どもにとっては、「ゆとり」になっているのでしょう。
「逃げ場」でもあり「あそび(車のハンドルでよくたとえられますね)」でもあるのでしょう。

子どもだけでなく、大人にとっても、それは同じことなのだと思いますが、
なかなかそう感じられないですね。一つの考えにとらわれがちです。
自分は「ふつう」というとき、どことなく、「これでいいや」と開き直ってしまっているところがあります。
「自分はありのままでいい」というのとは、似て非なるものです。

「仏教の教えとは、そうではない、ということを教えられること」と先輩から、そのまた先輩の言葉として教わりました。
今いる場所にこだわって留まっているのは「きゅうくつ」。
「そうではない」の言葉は「ちょっと離れてみては…」という意味の言葉だと思うのです。


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Posted by 明行寺住職 at 17:51│Comments(0)法話
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