2013年01月31日

オニとホトケ-体罰に思う-

オニとホトケ-体罰に思う-

「ホトケの○○、オニの○○」という言い方をしますね。
ホトケなら多少のお目こぼしをしてもらえるが、オニは容赦ない、ということですね。
教授の単位認定、指導役の先輩…、ホト・オニのどちらに当たるかで、
ゲートを通過できるかどうかは大きく左右されます。オニとホトケ-体罰に思う-

でも、本当のところホトケ(仏)様は、「事実」をもって私らを照らすのですから、
評価は、だいたい私の「思い」とは異なるハズ。
つまり、キビシいのです。オニとホトケ-体罰に思う-
キビシいけれども、「ホトケの○○」といわれる所以は何か。
やはり、仏様には「慈悲」があるからでしょう。

さて、大阪の高校の「教員の体罰による生徒の自殺」事件により、
体罰について様々な見解が語られました。
朝のニュース番組というのか報道バラエティ番組でゲストが、
「たとえば、教師は熱意を持っての指導で生徒を叩いても、当の生徒がやる気を起こさなければ、
 それは『体罰』ではなく、『暴力』になってしまう。そのあたりが難しい」
と語っていました。
「難しい…」というのは、事件性の判断のことかと思うのですが、
生徒に「通じる」ということをもっと根本から見直さなくてはなりません。

かく言う私も見直しをしないといけない一人で、
子どもに対して、怒ってしまうことの多いこと。
「どうして、言っていることがわからないのか」という思いがこみ上げます。
でも、何時いつまでに身に付けてほしい、という思いの方が土台無理なこと。
できるようになったときが、その子にとっての、「できるとき」なのですが。
ともあれ、「通じる」までには時間がかかります。

「子どもにとって、『自分のことを、よく聞いてくれる、わかってくれる人』の言うことならば、
 聞く耳を持つ」
…と、どこかで読んだことがあります。
わが子を見ていて、そのとおりだなあと、感じます。
親である、こちら側にゆとりがあって、
子どもの話を聞きながら諭すと、頭ごなしに叱るよりも、通じるように思います。

子どもの気持ちを聞けるのは、
親自身が、自分にどれだけ向き合えるかどうかと正比例するのでしょう。
「子どものため」と言いつつ、親自身の自分の中での不安などが大きかったりします。
あるいは、子どもの「やったこと」「やる気の無さ」は、
何の表れなのか、何か心配事が根っこにあってのことなのか、
それを見出せるかどうかは、親の感覚にかかってきます。

仏の慈悲を「大悲」、大きな慈悲といいます。
きっと大きいのだろうなあ、というイメージを抱きますが、
もう少し詳しく言えば、
人間のおこす慈悲は「小悲」とされます。
この対比は何を意味するのか。
私たちの「誰それのため」という根っこにある、自分の中での不安や不満。
それを払拭し難いことを示唆しています。

体罰が良いか悪いか、どこから先が体罰になるのか、という視点よりももっと深く、
自分と向き合うことが、どこまでも求められています。



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Posted by 明行寺住職 at 14:32│Comments(0)法話
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