2012年11月30日
親世代よりまじめ? 高校生へのアンケート結果から
親世代よりまじめ? 高校生へのアンケート結果から
「授業や勉強に熱心」と答えた高校生が6割。
そんな記事が先日の新聞に出ていました。(『朝日新聞』11月21日)
30年間にわたる研究グループの調査結果です。
親世代である30年前の1.7倍だそうですから、
「まじめ化」が進んでいる、ということになります。
親世代というと、ちょうど僕の年代です。
当時は、ツッパリ・校内暴力という、現在では死語になりつつある現象の最盛期でしたが、
いつの間にかほとんど見かけなくなりました。
変化の背景には何があったのでしょうか。
「実際の行動が回答のとおり変化している面もあるが、前と同じ行動をとっていても、
意識が変わり、自分がまじめだと考えて答えている面もあるのではないか」
と分析しています。(同志社大学・尾嶋史章教授らの研究グループ)
それは、一つには
「学校も社会も厳しい規律を求めなくなったので、ぶつかるものがなく、
自分がまじめでないと感じなくなった」ということでもあるようです。
他にもいくつかの背景をあげていますが、このことが僕は気になるのです。
「授業や勉強に熱心」と答えた高校生が6割。
そんな記事が先日の新聞に出ていました。(『朝日新聞』11月21日)
30年間にわたる研究グループの調査結果です。
親世代である30年前の1.7倍だそうですから、

「まじめ化」が進んでいる、ということになります。
親世代というと、ちょうど僕の年代です。
当時は、ツッパリ・校内暴力という、現在では死語になりつつある現象の最盛期でしたが、
いつの間にかほとんど見かけなくなりました。
変化の背景には何があったのでしょうか。
「実際の行動が回答のとおり変化している面もあるが、前と同じ行動をとっていても、
意識が変わり、自分がまじめだと考えて答えている面もあるのではないか」
と分析しています。(同志社大学・尾嶋史章教授らの研究グループ)
それは、一つには
「学校も社会も厳しい規律を求めなくなったので、ぶつかるものがなく、
自分がまじめでないと感じなくなった」ということでもあるようです。
他にもいくつかの背景をあげていますが、このことが僕は気になるのです。
そういえば、かつては校則の厳しい学校が多く、
「スカートは膝下何センチ」とか「髪の毛はこの長さまで」というものがありましたが、
最近では私服の高校も増えましたし、頭髪もさまざまなスタイルを見かけます。
また、中学高校のみならず社会人も、働き方や職種が多様化し、
柔軟な勤務時間やラフな服装の職場が増えました。
それだけ、ぶつかるものが減ったということは、言われてみて、あらためてそう思いました。
さて、規律といえば、仏教一般には「戒律」というものがあります。
修行者の自発的な決意である「戒」と、集団の規則である「律」があります。
いずれも、大まかな言い方ですが、自分の行ないをどうするかという意識を持つことが大切な点です。
「○○しなくてはいけない」「○○は禁止」という決まりがたくさんあるのは、
それだけ、自分では気付けない・いたらないことを自覚せしむるためということでもあります。
浄土真宗では戒律をたもつということはありません。
その理由をここで十分に説明できませんが、
「戒律をたもてぬ身」であることの自覚が大切になります。
「戒律をたもてないような自分はダメ」、と落ち込むのがよいというわけではありません。
いたらない自分をどこかで気付かせてもらうことが必要です。
「人に迷惑をかけないようにする」という配慮はしなくてはいけませんが、
「迷惑をかけずに生きられない」という自覚こそが大切、ということです。
高校生であれば、自分のいたらなさは、たとえば、
経済的な面でも、人格的な面でも、まだ親や教師に育ててもらっているということ。
まだ半人前ということです。
その感覚はどこで持てるだろうかと考えると、
かつての「ぶつかり」も、その自覚のためのきっかけだったなあ、と思えるのです。
社会や親とぶつかって、反発と同時に自分の未熟さを知ったものでした。
まじめな傾向、という今回の回答結果。
額面どおりにとれば良いことではあります。
問題は、どこで自分を顧みることができるのか。
これは高校生だけではなく、「大人」もひとごとではありません。
「いじめ」も自覚の有無が根本にあるように思います。
大人も、例えばセクハラ・パワハラ・差別意識・育児参加…同じく、自覚の問題です。
なんだか、耳が痛くなってきました。
「スカートは膝下何センチ」とか「髪の毛はこの長さまで」というものがありましたが、
最近では私服の高校も増えましたし、頭髪もさまざまなスタイルを見かけます。
また、中学高校のみならず社会人も、働き方や職種が多様化し、
柔軟な勤務時間やラフな服装の職場が増えました。
それだけ、ぶつかるものが減ったということは、言われてみて、あらためてそう思いました。
さて、規律といえば、仏教一般には「戒律」というものがあります。
修行者の自発的な決意である「戒」と、集団の規則である「律」があります。
いずれも、大まかな言い方ですが、自分の行ないをどうするかという意識を持つことが大切な点です。
「○○しなくてはいけない」「○○は禁止」という決まりがたくさんあるのは、
それだけ、自分では気付けない・いたらないことを自覚せしむるためということでもあります。
浄土真宗では戒律をたもつということはありません。
その理由をここで十分に説明できませんが、
「戒律をたもてぬ身」であることの自覚が大切になります。
「戒律をたもてないような自分はダメ」、と落ち込むのがよいというわけではありません。
いたらない自分をどこかで気付かせてもらうことが必要です。
「人に迷惑をかけないようにする」という配慮はしなくてはいけませんが、
「迷惑をかけずに生きられない」という自覚こそが大切、ということです。
高校生であれば、自分のいたらなさは、たとえば、
経済的な面でも、人格的な面でも、まだ親や教師に育ててもらっているということ。
まだ半人前ということです。
その感覚はどこで持てるだろうかと考えると、
かつての「ぶつかり」も、その自覚のためのきっかけだったなあ、と思えるのです。
社会や親とぶつかって、反発と同時に自分の未熟さを知ったものでした。
まじめな傾向、という今回の回答結果。
額面どおりにとれば良いことではあります。
問題は、どこで自分を顧みることができるのか。
これは高校生だけではなく、「大人」もひとごとではありません。
「いじめ」も自覚の有無が根本にあるように思います。
大人も、例えばセクハラ・パワハラ・差別意識・育児参加…同じく、自覚の問題です。
なんだか、耳が痛くなってきました。
Posted by 明行寺住職 at 19:42│Comments(0)
│法話
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