2023年11月29日

掲示板の言葉 2023年11月

掲示板の言葉 2023年11月

見たくないものは見えない 見たいものが見える

畑村洋太郎 失敗学会理事長 
『朝日新聞be』2023年11月4日
  

Posted by 明行寺住職 at 16:29Comments(0)法話

2023年10月31日

宗教とは~「自分を知らされる」

宗教とは~「自分を知らされる」

「宗教」の印象
宗教という言葉から連想することは、宗教2世、解散命令、「宗教みたい」…。
よい印象を持たれていないのです。
何か特定の考え方に凝り固まってしまう、そんな印象でしょう。
確かに、そんな教団もありますから、無理からぬ面があるのですが、
そんな印象のために、伝わらないものがあることは、残念です。

対象を見つめる
それとは真逆なものが科学でしょうか。

「科学的に正しい」というと、「信用に値する」印象があります。
僕自身、小学校以来、理科の時間は大好きでした。
生物・化学・地学・物理のいずれの分野も楽しい時間でした。
高校では文系を選択、そして物理は不得意科目になりましたが、
それでも、「文系化学」の時間は少人数で楽しく、熱心に勉強しました。
その楽しさの感覚がどういうものかは、当時は意識したことはありませんが、
今ならこんなふうに表現します。
「対象」となるものを、ちょっと突き放したように見てみたり、
時にはいろいろ試してみる、変化させてみる、それで何かを知ろうとする、というもの。

いや、それはどうも僕もオリジナルな表現ではなくて、高校時代に、教わった、
「実験とは自然を拷問にかけて自白させることだ」という、
ロバート・ボイルだったか(正確なところは、別に調べてください)の言葉が衝撃的で、
僕もそう感じていたかのように思えてしまっている、のかもしれませんが。
ともあれ、僕の「科学」観なのです。

さて、科学が発達した時代には宗教は不必要なものでしょうか。

対象を見つめる自分とは
対象となるものを見つめる科学は、それは必要ですし、
時には、宗教を検証するためにも、必要な方法だと思います。
「科学が全てではない」というと、如何にも宗教的な感じがしてしまいますが、
科学と宗教では見つめる先が異なるのです。

納得がいった時、「腑に落ちる」と言いますが、
宗教は聞いて、その「腑が落ちる」、なのです。

「どうしてなのだろう」「なぜ、このようなことになったのか」…。
と思いめぐらすその自分の「腑」が落ちる。
「自分の思い」で納得したかった、その「自分の思い」が見えた。
見えた「自分の腑」は、どんなであったか。
「腹ぐろい」という言葉がありますが、とても見られたものではない。
でも、見えなければ、自分の見方に気が付けない。
そういうものだと昔の先輩から伝えられてきていることです。

自らを知る智慧
知識が、自分の思いを叶えるためのもの、であるならば、
智慧は、自分の姿を知らせるもの、と言えましょう。
宗教は知識ではなく、智慧です。
宗教もまた言葉・知識をもって語られますが、
言葉・知識という手立てによって表される智慧こそが宗教です。

「宗教にとって大切なことは 自分の弱さを知ることである」
 と語ったのは、宗教哲学者の西谷啓治氏です。

「強い」人と比べて「弱い」という比較よりも、
言葉がきついですが、「愚かさ」なのかと、僕は受け取っています。

聞くほどに、自分の在り様を問う。自分の腑(腹)を問う。
それが本来の宗教の在り様です。

11月28日は親鸞聖人のご命日。
親鸞聖人の問うた自身の在り様を、私もまた自身において問いていく、
ということかと思います。








  

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2023年10月31日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その151

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その151

朝晩と日中とで、温度差の大きい日々。
猫も日中は気持ちよさそうに日向ぼっこしています。




  

Posted by 明行寺住職 at 19:32Comments(0)法話

2023年10月31日

掲示板の言葉 2023年11月

掲示板の言葉 2023年11月

杖つきて歩く日が来む そして杖の要らぬ日が来む 君も彼も我も

高野公彦(1941~)歌人
  

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2023年09月30日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その150

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その150

今回も寺を出て、近所を回って猫を探しました。
未だに暑さが続いているせいか、
猫もダラリとしています。



  

Posted by 明行寺住職 at 14:17Comments(0)法話

2023年09月30日

夕方を失う


夕方を失う

夕刊が終える

信濃毎日新聞の夕刊が9月30日付をもって休刊となりました。
生活リズムの一つ無くなってしまい、さびしいです。
我が家に夕刊が届くのは4時頃。
郵便受けに取りに行くのが一つの区切り。
仕事の目途にしていたりしました。

この数年は、最新ニュースよりも特集や出来事の詳細が主で、
僕もまた、見出しと明日の天気を見て、
開いたページは夕食後に読んでいましたから、
夕方の最新情報ではなくなっていました。

「よどんだ」の時間
かつて夕刊をゆっくり読むことに憧れていたことがありました。
大学生になって時間にゆとりができたら、
アパートで夕方のんびりと夕刊が読めると思って、楽しみにして取り始めました。
とは言っても、朝は遅くまで寝ていたり、夕方はサークル活動で学校に遅くまで居たりで、
朝刊すら落ち着いて読まずに出かけ、帰ってくると読みかけの朝刊を読むのがやっとで、
夕刊まで読む気力が失せていました。
そのうち、学校の図書館で新聞を読むようになりました。
夕刊がイヤになったわけではなく、
夕方のちょっと「よどんだ」ひと時が僕の生活リズムから無くなりかけていたのでした。
大体、学生生活が「よどんだ」時間のようなものでしたから。

就職してからはまた事情が違っていました。
夕方、出先から戻ると、不在中に届いた案件の対応に追われて、
職場がもっとも喧噪に包まれる時間帯でした。
そのまま夜になることは、一時のよどみがないためか、
「もう少し早く思いついたらよかったのに」というようなことが、
退社時になってから頭に浮かぶようなことがよくありました。

夕事勤行
寺に入って、夕方を、忘れていたものを思い出したような感覚で迎えました。
夕事勤行、という読経…正確にはお経(お釈迦様の言葉)でなく、
親鸞聖人の言葉の唱和があります。
朝と夕に勤めるのですが、「夕」は夕食前のことが多いので、
これを勤めることで、「夕方」という時間が確保されます。
一日を想う時です。
それからまた、就寝まで時間があるのがいいのです。
寝る前にいろいろ思い出すと、どうも寝つきがよくないので、
その前に「かたをつけて」おきたいのです。

人生にも必要な夕方
人生もまた夕方があった方がいいようです。
先輩が言うにはですが、
亡くなる直前まで、ずっと同じように現役バリバリも、まあいいのだけれども、
やはり、振り返ったり、とまどいながらも、先を考えたりする、
そんな時間が必要とのこと。
古代インドの、人生のサイクルを説いた「四住期」にも、
林住期(現役引退後の第2の人生の初め頃に相当)があります。
現代では、仕事中心からちょっと距離を置くいて、人生を見直す時期のと言ってよいかと思います。

夕刊が休刊となり、さびしいのは、そんな、ちょっとした「よどみ」の必要なことを、
感じさせられているのだと思います。







  

Posted by 明行寺住職 at 14:16Comments(0)法話

2023年09月30日

掲示板の言葉 2023年10月

掲示板の言葉 2023年10月

何度拭いても おんなじ鏡
曇りはこっちの胸にある


尾藤三笠(1905~1955)どどいつ作家
  

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2023年09月26日

おみがき (報恩講の準備 仏具のお手入れ) 

おみがき…報恩講の準備 仏具のお手入れ

10月20日(金)午前10時~12時
終了後に寺にて昼食をいただきます。

               
本堂の仏具をみがきます。初めての方も楽しくできます

*申し込み…昼食の準備の関係上、15日までにご連絡ください。
申込人数が20人になりましたら、締め切らせていただきます。
昼食も含めて参加費は無料です。


*汚れてもよい服装でおこしください。
  

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2023年09月21日

2023年 報恩講(ほうおんこう)におこしください

2023年 報恩講(ほうおんこう)におこしください

11月10日(金)午後2時~4時
   11日(土)午後1時30分~3時30分
         午後5時~  18時半頃~お斎(食事)
         
         ※夜の部およびお斎を、本年は再開します。
          今後の感染拡大の状況により、お斎は中止する場合がありますことをご了承願います。


都合のよい回にご出席ください。
参加費は無料です。

報恩講は宗祖親鸞聖人のご命日に、門徒(檀家)がつどい、
聖人の教えによって、この一年間の自分を振り返るるひとときです。

本堂でお勤めをして、聖人のご生涯を描いた掛け軸を住職が解説します。
その後はホールにて法話とお茶の時間です。
「仏教の話は初めて」という方、特に歓迎です。
普段なかなかおいでになれない方、初めての方、門徒(「檀家」)でない方ももお気軽にどうぞ。

報恩講は浄土真宗のどのお寺でも、おこなわれる、もっとも大切な行事です。
明行寺の「本山」である、京都・東本願寺では11月21日から、
祥月ご命日である28日まで法要が勤められます。
  

Posted by 明行寺住職 at 10:05Comments(0)

2023年09月21日

秋お彼岸の開門時間のご案内

秋お彼岸の開門時間のご案内

秋のお彼岸、9月20日(水)から23日(土)までは、
朝6時から夜6時まで開門します。

24日(日)~26日(火)は、5時30分までです。


前もってご連絡いただければ、
これ以外の時間のお参りにも応じます。
  

Posted by 明行寺住職 at 09:59Comments(0)お知らせ

2023年09月03日

100年前の 無料宿泊所

100年前の 無料宿泊所

今年の9月1日は、関東大震災から100年にあたり、
あらためて震災の詳細な検証がなされています。
中でも、被災された方が生家や縁故先などへ避難した状況や、
避難者への救援救護活動が、最近は詳しく伝えられるようになりました。
信越線は被災者でたいへんな混雑となり、
各駅では炊き出しや配給が行われました。

(以下は、長野郷土誌研究会『100年前の関東大震災と長野県』によります)

乗り換えのため、駅で途中下車した避難者の休息のため、
当明行寺では、無料宿泊所として避難者を受け入れました。
近くの康楽寺さん、西方寺さん、も、
それぞれ無料宿泊所として対応をしました。
これは長野市仏教各宗同盟会の救援活動の一環で、
会では、長野駅目の救護所の脇に仮設ベッド60床を置いて仮眠や休息の場を提供しました。
長野駅からそれぞれの寺への誘導は仏教青年団が行いました。
(当寺院の受け入れ人数は『権堂町誌』では14人。
 正法寺さん(現西本願寺長野別院)でも受け入れがあったようです)

この無料宿泊所の話は、寺にオリジナルの記録としては残っておらず、
上記の郷土史研究会の冊子や講演、町誌などで知るところです。
知って、いろいろ考えるところがありました。
当明行寺の対応も驚きましたが、各自治会や団体の取り組みは、
想像以上に大規模なものでした。

一つは、100年前に自治体や各団体が、
迅速かつ積極的に、それも自発的に活動したことが意外だったこと。
阪神大震災以降、ボランティア活動が広まった印象がありますが、
時代状況や組織の在り様はことなるとはいえ、
100年前の市民の意識を認識し直しました。

もう一つは、祖母に当時のことを聞いておくべきだったということ。
当寺院の生まれだった祖母は、当時15歳くらい。
宿泊所としての対応に携わっているはずですが、
この話を聞いたことはありません。
祖母は僕の小学校2年生の時に亡くなりましたので、
僕から尋ねることもできなかった訳ですが、
震災のことは十分に記憶に残っていたはずです。

親や叔父伯母の昔ばなしは、多少のお説教が混じることを辛抱してでも、
聞いておかなくてはいけない、と思いました。

そんな思いで迎えた9月1日でした。


  

Posted by 明行寺住職 at 14:55Comments(0)

2023年08月31日

掲示板の言葉 2023年9月

掲示板の言葉 2023年9月

夫の手の皺の深さに気がつきぬ湯のみを受け取る人のいる幸

近藤福代  『朝日歌壇』2023年2月19日
  

Posted by 明行寺住職 at 15:59Comments(0)法話

2023年08月31日

水分補給の必要な、「生き物」の私

水分補給の必要な、「生き物」の私

真夏日連続記録を更新
長野市の真夏日は8月26日現在で連続42日となり、
38年ぶりに連続記録を更新したそうです。

ここまで暑いと水分補給を意識的にしないといけないのですが、
特に暑い今年はルーチン化しました。
それにしても、雨が少なく、境内の草花の葉先が茶色くなりかけたりしているのを見ると、

生き物はかなりの割合が水分でできている、ということがよくわかります。
そして、僕も「生き物」であることを実感させられます。

僕もまた「生き物」だった
「人間が他の生き物よりも優れている」という思いが、
どこかにあるのですが、
この暑さで、へたばりそうになると、
今更ながら人間は弱いなあと思います。

草木の多くがしおれている中で、
墓地に育っている「マツバギク」(松葉菊・写真)など、
この暑さでありながら、厚い葉に水分を貯えて元気に花を咲かせています。
空いている区画に草が生えるのを抑えるために、
前坊守が挿し木をして増やしたのですが、
切って土に挿しておくだけで、よく伸びるものです。
ある程度育つと、水やり不要で花を咲かせるのですから、大したものです。

水分が半分以上の私
人間の身体は約6割が水分(成人男性)ということを、
この夏は水分補給のたびに思わされました。
仕事・学業・運動…の能力差に関わらず、みんな水分が半分以上。
そんな視点で見ると何だか面白いものです。
ちょっとした差で「オレが上」なんて思ってみても、たいしたことではなく思えます。

先にも述べたとおり、人間もまた生き物、ということ。
「一切衆生」というときの衆生は、
どんな人でも、と受け止めてしまいますが、
人間だけではなく、生きとし生けるもの、ということです。

「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」歎異抄第5条
<意訳>生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在である。

親鸞聖人は、供養について語る中で、有情(生きとしけるもの。「衆生」の新訳。感情を持つもの)について、
このように言い表しておられます。

父母兄弟といっても、前世が何であったというような「輪廻」ということではなく、
父母や兄弟のように「つながりあって生きる」ということです。
そこには、命の平等性ということもあります。
対立を超えてありたい、という願いも、僕はそこに感じるのです。

原点に戻るような
喉が渇いて水を飲んで、ホッと一息ついたときの感覚。
忘れていた「生き物の感覚」をちょっとだけ取り戻した…ものかどうかは、わかりませんが、
時に持ってしまう「万能感」とは対称的です。

競争がいけない、でもなく、優越感を捨てる、でもないのですが、
何だか生き物の「原点」に戻れるような感覚があります。

「生き物」の私を、思い出させる今年の暑さです。

(ところで…)
真夏日連続の、過去の最長記録だった1985(昭和60)年の夏は、
僕は高校生でしたが、クーラーの無い校舎でよくやっていたものです。
35度を超える日が今ほど無かったからでしょう。
それでも、この年は、その前後の年と比べると暑かったことがわかります。
気象庁データ  <1985(昭和60)年8月の県内各地の最高気温>
前後の年のデータを見ると、今との違いに驚きます。
  

Posted by 明行寺住職 at 15:58Comments(0)法話

2023年08月31日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その149

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その149

猫が境内に、やっては来るのですが、
頻度が少なくなりました。
という訳で、境内を出て、ちょっと外に出て猫を探すと、
近所には結構いるのです。
境内にやってきていた猫も健在でした。
暑さを耐えて元気な様子です。




  

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2023年07月31日

真宗会館の日曜礼拝に出講

真宗会館の日曜礼拝に出講

真宗大谷派の首都圏の拠点である真宗会館(東京・練馬)では、
「親鸞聖人ご命日のつどい」をはじめとする法話会、「親鸞講座」
「仏教学入門講座」をはじめとする講座、「仏前結婚式」「葬儀」「法事」などの儀式が行われています。

毎週日曜日は、午前10時から「日曜礼拝」として法話会が行われています。
住職も、先日7月2日にお話をさせていただきました。
よろしければ、下記にて、お聞き、ご批判ください。

真宗会館HP 
法話動画 
  

Posted by 明行寺住職 at 13:46Comments(0)お知らせ

2023年07月31日

掲示板の言葉 2023年8月

掲示板の言葉 2023年8月

いくたびも 背きし父の 墓洗ふ

西内正浩 
平成16年度 飯館村「愛の俳句」入選句
  

Posted by 明行寺住職 at 13:32Comments(0)法話

2023年07月31日

できなくなったことが増えていくけれど

できなくなったことが増えていくけれど

受け止め難いこと
「できないこと、やりにくいことも増えていくけれども…」
46歳で若年性アルツハイマー型認知症と診断された下坂厚さんは、
「認知症になったからといって、自分が自分であることに変わりはない」
と語ります。      (東本願寺『同朋新聞』2023年8月号)

これ迄できていたことが、だんだんとできなくなっていくこと、

その受け止め難さは、具体的にどのようなものだったのか。
下坂さんは、
「認知症である」というレッテルを貼られてしまうこと、
まわりに迷惑をかけたくない、ということ、
そして、自分が衰えていくところを見られること、
それらに抵抗があった、といいます。

稼いでこそ、という価値観
鮮魚店で働き、新しく会社を立ち上げ、これから、というときに発症したのだそうです。
何もしたくない、誰とも会いたくない時期があったといいます。

介護施設でのボランティアを勧められ、やがて職員として働く経験をされました。
介護の仕事を通して気付いたことは、発症するまでは「稼げる人間が偉い」という価値観だったこと、だそうです。

「稼げる人間が偉い」という価値観は、僕にも強くあります。
自分のこれからを考えるとき、「認知症にならないように」ということが頭に浮かびます。
「どんな人も、どんな状態でも、ありのままでいいじゃないか」と意識上では考えていますが、
根の深いところに「働いて収入を得てこそ一人前」「自分のことを自分でできなくなったらだめ」という思いがあるのです。

働けるときは働いて、稼いで…でよいのですが、
それができなくなった時のことを、教わる機会が無いのが現代だと思います。
できなくなった自身を受け入れる智慧が必要です。

他人事ではない…ということから
認知症、あるいは病気でなくても、だんだんとできないことは増えていく、
そんなことを僕も実感しつつあります。
笑われてしまいそうなことですが、例えば、
テレビ番組で、山のように高く盛られたかき氷が写ったときなど、
「もう、あんなの食べられないな」と、
ぼやいてしまいます。
他にも、情報ツールのつかいこなし、遅い時間の食事、何かに付けての多少の無理…。
些細なことですが、しかし、確実に、できなくなりつつあります。
ご年配の方が、重たそうにものを抱えていたり、
歩くのが大変そうにしている姿が、自分と地続きにとらえられるようになりました。

できていたこと、から、いる、ことへ
できていた自分は、その「できる」ことが、支えになっていました。
できなくなりつつある今も「もっとできなくては」という根っこの思いは変わりません。
そんな価値観のまま先々を考えると暗くなってしまうのです。

「今」に目を向けられれば、もっと明るくなれるように思います。
「先」を考えるのは、人間にとって離れられないことかもしれません。
それだけに、「今」に戻るための、きっかけをもらうことは貴重なことだと思うのです。

下坂さんは、高校生の頃から写真を撮ることを始め、仕事にしていた時期もあったそうです。
「今では、自分の記憶の代わりという部分が加わったように思います」と。
「写真を撮る時って、自分と向き合っているのだと思います。それが表れているのでしょう」と。

自分と向き合い、そして、「今」とも向き合っているのだと、僕は受け止めました。
写真は、まさに「今」の光景。
僕も、下手ながら写真を撮りますが、「今」がいとおしく感じられる時です。

親鸞聖人750回御遠忌のテーマ「今、いのちがあなたを生きている」が、
今頃になって、響きます。

写真を撮る…。
意外なところで、「今」との向き合い方を、教わった思いです。
  

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2023年07月31日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その148

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その148

玄関の扉を網戸にしたら、
時々、猫が中を見ています。
入るタイミングをうかがっているような感じのこともあります。
まれに入ってしまうこともありますが、
何だか心細そうな鳴き方をしています。
「気になって、やってみたら、ちょっとこわかった」
そんな年頃もあったなあ、などと、そんなところで思い出すかと。





  

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2023年06月30日

植物男子の楽しみは

植物男子の楽しみは

「らんまん」が始まって
朝の連ドラで「らんまん」が始まって僕にとって嬉しいことは、
「植物男子」(植物好きの男性)がこれまで以上に、堂々とできる、
ということです。
…いや、思い違いかもしれませんが。



しばらく前に同じNHKで「植物男子ラベンダー」という番組がありました。
僕にとっては、植物を育てるのが好きというのはなんとなく言いだしにくい、という思いがあって、
人に話したことはありませんでしたが、かの番組が始まり、自信が持てたのでした。
といっても、盆栽のように専門的でも、ガーデニングのように華やかでもなく、
種をまいて育てるのが楽しみという程度のものですが、
芽が出てきた時の嬉しさというのは、いくつになっても変わらぬもので、
いまだ新鮮な感じがするのです。

僕も子どもの頃
子どもの頃から、学校の花壇や道端の花の種を採ってきて、蒔いて育てることが好きでした。
(右上のハルシャギクもそうなのです)
果たしてうちで同じように花を咲かせるのだろうかと、
それがわからないからこそ、楽しみでした。
育て方は、今ならネットで検索できますが、
小学校でアサガオや菊を育てる時に教わったことをもとにして、
多分こんな具合だろうということをやっていました。
鉢は学校のアサガオ学習で使ったあとのもの、
土は庭の土を掘って、肥料は物置にあった、おそらく祖父の盆栽用のものを使いました。

今考えてみれば、その辺りで咲いている花ですから、
大体はほうっておいても育って花を咲かせるものですが、
当時の僕にとっては、まず、芽が出たらうれしくなり、
初めて見る双葉、本葉、を新鮮な思いで見つめ、
つぼみが付いたら、翌日が楽しみでした。
そしてまた、採ってきた時と同じように種ができて、ここまでの約半年を思い出しては、
長い話の本を読み終えたような感覚を味わったものでした。

中学に入った頃からか、そんな時間とはずっと遠ざかっていましたが、
寺に入ってから、少しずつ「再開」しました。
飾ることを意識してアサガオもネットを張ってつるをはわせたりしていましたが、
いろいろやり出すと結構大変で、今は大がかりなことはせず、
鉢も限定して、地植えを中心にしました。
また、最初に戻ったようなものです。

芽が出て、咲いて、種ができて
変わらないのは、芽が出ては「さあ始まった」、つぼみが付いて「いよいよ」、
種ができて「ああ終わった」の繰り返し。
花が咲いた時はもちろん嬉しいのですが、それは本当に一瞬。
むしろ咲く迄を楽しみ、その後を慈しんでいるようなものです。

書いていて、何だか人の一生を重ねて見ているような感じになってきました。
そういえば、いつからか花の咲いた後に花がらを摘んだり、肥料をあげたりするようになりました。
以前は放っておいて枯れてから片付けていたのですが、
門徒さんから咲いた後が大事と教わってやり出したことです。
さぼってしまうこともあるのですが、花を二度味わっている気持ちになります。
僕も体力的にはピークを過ぎて、各種の健診に行ったりしていますが、
似たようなものかと。

因・縁・果
種という「因」に、水や肥料や日差しの「縁」、花という「果」、
その縁には季節の移ろいも含まれていて、やがて枯れていきます。

いのちとして始まり、いのちとして終えることを、いのちに帰る、と受け止めることを、
ほんらいに帰る、浄土に帰ると表現します。
植物男子はそんな学びをしています。


  

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2023年06月30日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その147

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その147

急に暑くなってきました。猫も暑い、らしい。
体が地面に近いので、人間以上に暑い、いや、熱い、か。
かつて、蒸し暑さこの上ない京都で暮らした経験から、
長野の夏の暑さは、ずっと楽、と思っていましたが、
なじんでくると、長野の夏も耐え難くなりました。
それにしても、京都の猫は、あの蒸し暑さに耐えているのかと、
今更ながら思ったりします。



  

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