2024年02月29日

希望を託した旋律



希望を託した旋律

僕もそこにいた

信濃毎日新聞に連載されている、作曲家 武満徹の足跡をたどる特集、
「音の河へ 武満徹 信州で紡いだ調べ」の第16回(2月7日)は、
「悲しくも希望を託した旋律」として、
彼の作曲による『死んだ男の残したものは』に込められた思いをたずねるものでした。希望を託した旋律

僕が中学校の音楽会で歌った曲であり、懐かしく読みだすと、
そのことが文中に出てきました。

「かつて教えていてた中学校の学年合唱で取り上げたことがある…」

この曲が「県内でも歌い継がれている…」ことの一つとして、
武満氏が山荘を構えた北佐久郡の少年少女合唱団の公演でも披露されたとあり、
その合唱団指導者の言葉が続きます。

「歌詞で戦争反対って言わなくても思いが伝わる。
 イデオロギーというより、もっと人間的なものを感じる」

この指導者の先生に、僕は中学校の音楽の授業で教わりました。
「かつて教えていた中学校の学年合唱」とは、
僕もその中の1人として歌った、音楽会でのことでした。

「死んだ男の残したものは
 ひとりの妻とひとりの子ども
 他には何も残さなかった
 墓石一つ残さなかった」

衝撃的な印象を受けました。
それまで学校で教わった合唱曲は、
ちょっと気恥ずかしさを感じる、
「明るい希望」があふれるような曲が多かったのですから、
この「何も残さなかった」という歌詞はなんだろう、と思いました。

作詞者は谷川俊太郎さん。
教科書に出てくる詩は「ちょっと変わってるけど面白いなあ」と
いう印象だっただけに、谷川さんってこんな詩も書くのかと、
意外でありながら、何となく納得しました。


「だから、なんだ…」

思えば、この曲を音楽会で歌うことも、
当時、どこかで不思議に思っていました。
どうして、この曲を選ばれたのかと。

先生から時折、
「死んだ男の残したものは…、だから何だ…」
と、その先に続く自分の言葉を問われることがありました。
指名されて答えさせられることはありませんでしたが、
「だから戦争はいけません」などと単純なことは言えない問いだったことは、
きびしい授業の雰囲気と共によく覚えています。

僕が歌った当時、時代はバブルを目前にしていました。
翌年は戦後40年目にあたる年だったのですが、
それを意識した選曲だったのかどうかは、いつか先生にたずねてみたいことです。
当時の僕は、曲の衝撃的な印象と、先生の熱意なのか熱というべきかに、
応えるのがいっぱいのうちに、音楽会を終えました。

戦後40年から、今度は更に40年。
今年は、僕がこの曲に出会ってから40年。
曲の誕生からは60年になるそうです。
思春期の頃、社会の変化とか時代の流れということを語れる歳になることを、
想像してみたものですが、
その歳になってみて、そんな想像をしていたことを苦笑いせざるを得ません。
予想しなかった変化が起こること、あれよあれよという間に進んでしまうこと、
逆に相変わらずの多いこと、のためでしょうか。
その3つの相を持つ最たるものが戦争だと、「語れる歳」になって感じます。

人間的とは
「思いが伝わる。イデオロギーというより、もっと人間的なものを感じる」
先生のおっしゃる「人間的」とは、そういうことだろうか、
とも思います。

「兵戈無用」(武器も軍隊もいらない)
              『大無量寿経』

「死んだ兵士の残したものは、こわれた銃とゆがんだ地球
 ほかには何も残せなかった 平和ひとつ残せなかった」

経典の言葉と歌詞を並べてみました。
このように表現するのが仏教ですが、
どちらも「戦争反対」とは、ちょっとニュアンスが違います。

どちらも、人間が発する言葉ではなく、呼びかける言葉。
言い換えれば、声なき声を聞いた人が言葉にしたもの、
ということです。

人間がそれに応えるならば、
「何かきっかけがあれば、いのちを傷つけかねない自分である」
というものでしょう。
逆説的なのですが、そのように自覚する人こそが、
いのちを尊ぶことができるのだと思います。

この曲の終わりは
「死んだ歴史の残したものは 輝く今日とまた来る明日」

「最後は長調に感じれられるようにできている」とは、
音楽学者の小野光子氏による解説で、
そこに「希望ををともした」と捉えている、といいます。
どこかで、前述の「逆説」と通じるように思えるのです。

先生、いかがでしょう。
答えるまで、40年お待たせしました。







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Posted by 明行寺住職 at 17:41│Comments(0)法話
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