2023年08月31日
水分補給の必要な、「生き物」の私
水分補給の必要な、「生き物」の私
真夏日連続記録を更新
長野市の真夏日は8月26日現在で連続42日となり、
38年ぶりに連続記録を更新したそうです。
ここまで暑いと水分補給を意識的にしないといけないのですが、
特に暑い今年はルーチン化しました。
それにしても、雨が少なく、境内の草花の葉先が茶色くなりかけたりしているのを見ると、
生き物はかなりの割合が水分でできている、ということがよくわかります。
そして、僕も「生き物」であることを実感させられます。
僕もまた「生き物」だった
「人間が他の生き物よりも優れている」という思いが、
どこかにあるのですが、
この暑さで、へたばりそうになると、
今更ながら人間は弱いなあと思います。
草木の多くがしおれている中で、
墓地に育っている「マツバギク」(松葉菊・写真)など、
この暑さでありながら、厚い葉に水分を貯えて元気に花を咲かせています。
空いている区画に草が生えるのを抑えるために、
前坊守が挿し木をして増やしたのですが、
切って土に挿しておくだけで、よく伸びるものです。
ある程度育つと、水やり不要で花を咲かせるのですから、大したものです。
水分が半分以上の私
人間の身体は約6割が水分(成人男性)ということを、
この夏は水分補給のたびに思わされました。
仕事・学業・運動…の能力差に関わらず、みんな水分が半分以上。
そんな視点で見ると何だか面白いものです。
ちょっとした差で「オレが上」なんて思ってみても、たいしたことではなく思えます。
先にも述べたとおり、人間もまた生き物、ということ。
「一切衆生」というときの衆生は、
どんな人でも、と受け止めてしまいますが、
人間だけではなく、生きとし生けるもの、ということです。
「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」歎異抄第5条
<意訳>生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在である。
親鸞聖人は、供養について語る中で、有情(生きとしけるもの。「衆生」の新訳。感情を持つもの)について、
このように言い表しておられます。
父母兄弟といっても、前世が何であったというような「輪廻」ということではなく、
父母や兄弟のように「つながりあって生きる」ということです。
そこには、命の平等性ということもあります。
対立を超えてありたい、という願いも、僕はそこに感じるのです。
原点に戻るような
喉が渇いて水を飲んで、ホッと一息ついたときの感覚。
忘れていた「生き物の感覚」をちょっとだけ取り戻した…ものかどうかは、わかりませんが、
時に持ってしまう「万能感」とは対称的です。
競争がいけない、でもなく、優越感を捨てる、でもないのですが、
何だか生き物の「原点」に戻れるような感覚があります。
「生き物」の私を、思い出させる今年の暑さです。
(ところで…)
真夏日連続の、過去の最長記録だった1985(昭和60)年の夏は、
僕は高校生でしたが、クーラーの無い校舎でよくやっていたものです。
35度を超える日が今ほど無かったからでしょう。
それでも、この年は、その前後の年と比べると暑かったことがわかります。
気象庁データ <1985(昭和60)年8月の県内各地の最高気温>
前後の年のデータを見ると、今との違いに驚きます。
真夏日連続記録を更新
長野市の真夏日は8月26日現在で連続42日となり、
38年ぶりに連続記録を更新したそうです。
ここまで暑いと水分補給を意識的にしないといけないのですが、
特に暑い今年はルーチン化しました。
それにしても、雨が少なく、境内の草花の葉先が茶色くなりかけたりしているのを見ると、
生き物はかなりの割合が水分でできている、ということがよくわかります。
そして、僕も「生き物」であることを実感させられます。
僕もまた「生き物」だった
「人間が他の生き物よりも優れている」という思いが、
どこかにあるのですが、
この暑さで、へたばりそうになると、
今更ながら人間は弱いなあと思います。
草木の多くがしおれている中で、
墓地に育っている「マツバギク」(松葉菊・写真)など、
この暑さでありながら、厚い葉に水分を貯えて元気に花を咲かせています。
空いている区画に草が生えるのを抑えるために、
前坊守が挿し木をして増やしたのですが、
切って土に挿しておくだけで、よく伸びるものです。
ある程度育つと、水やり不要で花を咲かせるのですから、大したものです。
水分が半分以上の私
人間の身体は約6割が水分(成人男性)ということを、
この夏は水分補給のたびに思わされました。
仕事・学業・運動…の能力差に関わらず、みんな水分が半分以上。
そんな視点で見ると何だか面白いものです。
ちょっとした差で「オレが上」なんて思ってみても、たいしたことではなく思えます。
先にも述べたとおり、人間もまた生き物、ということ。
「一切衆生」というときの衆生は、
どんな人でも、と受け止めてしまいますが、
人間だけではなく、生きとし生けるもの、ということです。
「一切の有情は、みなもって世々生々の父母兄弟なり」歎異抄第5条
<意訳>生きとし生けるものは、あらゆるいのちとつながりあって生きる父母兄弟のような存在である。
親鸞聖人は、供養について語る中で、有情(生きとしけるもの。「衆生」の新訳。感情を持つもの)について、
このように言い表しておられます。
父母兄弟といっても、前世が何であったというような「輪廻」ということではなく、
父母や兄弟のように「つながりあって生きる」ということです。
そこには、命の平等性ということもあります。
対立を超えてありたい、という願いも、僕はそこに感じるのです。
原点に戻るような
喉が渇いて水を飲んで、ホッと一息ついたときの感覚。
忘れていた「生き物の感覚」をちょっとだけ取り戻した…ものかどうかは、わかりませんが、
時に持ってしまう「万能感」とは対称的です。
競争がいけない、でもなく、優越感を捨てる、でもないのですが、
何だか生き物の「原点」に戻れるような感覚があります。
「生き物」の私を、思い出させる今年の暑さです。
(ところで…)
真夏日連続の、過去の最長記録だった1985(昭和60)年の夏は、
僕は高校生でしたが、クーラーの無い校舎でよくやっていたものです。
35度を超える日が今ほど無かったからでしょう。
それでも、この年は、その前後の年と比べると暑かったことがわかります。
気象庁データ <1985(昭和60)年8月の県内各地の最高気温>
前後の年のデータを見ると、今との違いに驚きます。
Posted by 明行寺住職 at 15:58│Comments(0)
│法話
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