2024年04月30日

私の認識~私という物語

私の認識~私という物語

記憶と実際で違う「道順」
ずっと以前に行ったことのある場所や、
子ども時代の街の様子。
それらは、地図や記録、友人の記憶などと比べると、
微妙に異なっていることがあります。私の認識~私という物語


通りの右側にあったと思っていたお店が、
実際は左側にあったり、
二つ目の角を曲がったらあると記憶していた家が、
三つ目の角の先だったり。
記憶とはいい加減なものだと認めざるを得ません。

しかし、先日見た夢の感想は、
「それだけではないのでは」と思わせるものでした。

記憶の方が、なぜか「しっくり」
家から10数分の公園から帰宅する夢でした。
よく知っている道を通って我が家にたどり着くのですが、
目を覚ましてから、夢を反芻して、
現実とは違う道順だったことが思い返されました。

夢の中ではその道順は疑いようがなく、
この角を曲がり、あの家が見えたらこっち、と
困ったり、焦ったりすることなく、納得しつつ家に帰り着いたのです。
現実とは違うのにどうして困らなかったのだろうかと、
しばらく不思議でした。
むしろ、夢の中の道順の方が「しっくりくる」のです。

どこか懐かしい感覚もあったその夢を、自分の心の内に引き当てようと、
あれこれ、思いを巡らせてみました。
結果、当たり前のことですが、
「僕の中では、そうなっている」ことに行きつきました。

私の認識
現実よりも記憶の方がしっくりくる原因は、
「懐かしさ」と「しっくりくる」がヒントなのですが、
自分の中では、夢に見た道順が、僕の「認識」になっているのでしょう。
普段は意識しない、自分の認識が、夢の中で無意識から現れ出たようです。

子ども時代に妙に印象に残った佇まい、いつも何となく気になる雰囲気の家。
それらが、僕の意識の中で順番に出てきたのでしょう。
だから、懐かしくもあり、しっくりくるのです。

かつて仕事で、認知症で徘徊をする方を担当しましたが、
いつも出かけていく方角が決まっていました。
理由は他人には分かり得ないのですが、
当人には意味のあることなのだと教わったことでした。

では認知症ではない人は、どうでしょう。
感覚・認識の機能が「一応はしっかりしている」から、
現実との区別がつきます。
しかし、自分の認識の限界があるのはなかなか意識できません。

同じ言葉を聞いても、受け止め方は様々です。
同じ状況を共有しながらも、すれ違いがおこる。
「そんなつもりはなかった」
「そういう意味で言っているとは思わなかった」
やはり、私たちの認識は不確かなものです。

私を生きる
「私(にとって)は、苦しい思いをしてきた」
「私(にとって)は、こういう時代を生きてきた」
「私」の「物語」とは、そういうものなのでしょう。

「身自当之。無有代者」
 身、自ら之を当くるに、有(たれ)も代わる者無し。  『仏説無量寿経』

という言葉があります。
「自分で引き受けていかねばならない、人と取って代われない」
一見、当たり前の言葉ですが、なんと深いのでしょう。

人ぞれぞれの認識の違い、ズレ、を指摘する言葉です。
同時に、「あなたは、あなたで、受け止めていくしかない」
と迫る言葉でもあります。

「ええっ、とても自分では、受け止めきれない」
というところから、始まるのが、真宗の学びではないか、と思うのですが、
それはまた、別の機会にお話しします。


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Posted by 明行寺住職 at 16:55│Comments(0)法話
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