2024年02月01日

門をくぐる 受験の季節に

門をくぐる 受験の季節に

修行のような日々
2月になると、僕にはもう遠い昔のことなのに、
受験の季節になった、と感じます。
高校・大学受験ともに、当時の気分が今もって深く残っているのでしょう。
特に大学受験生である高校3年の今頃は印象深いです。
授業は無く、自宅研修の日々。
週1回の登校日も全員が揃うことはなく、
友達とは長く顔を合わせることのない一人の日がずっと続きましたが、
まるで「修行」のような、人生の中でもちょっと特異な期間でした。門をくぐる 受験の季節に


関門
受験勉強には、そんな単調で孤独という苦しさがありましたが、
もう一つ、その意味がなかなか見いだせないことも苦しいことでした。
中学生あたりからその意味に疑問を感じていました。
今なら一つの過程と割り切ってしまいそうですが、
当時は何かの意味を見出すべく、あれこれ考えたものです。
受験生活から抜け出してしばらく経った頃、受験難易度の高いキリスト教系大学の受験告知の掲示板に、
「狭き門より入れ」という聖書の言葉があるのを見つけて、
大学に入るにしても、やっぱり苦労しないといけないのかなと、納得しかけました。
その大学としてはもっと深い意味があっての引用だったのかもしれませんが、
僕の理解は「シャレとしては、うまいことを言うなあ」というところまででした。
そこから先は、どう考えたか忘れてしまいましたが、
「たかが受験、されど受験」で、
あとから振り返って、自分にとっての意味づけをしていくより他はないだろうと、
いうところです。

前置きが長くなってしまいましたが、
何かを目指してひたすら励む日々は、時に修行のように言われます。
一般的な宗教のイメージとはそういうものでしょう。
先ほど「門に入る」という言葉を挙げましたが、
受験をはじめ、選考に通ることを「関門を突破する」といいますし、
何かを始めることを「入門する」と言います。
門に入るとは、何が始まるのでしょうか。

入門する
「入門編」というと、初心者向けのやさしい解説ですが、
「入門する」というと、覚悟を伴うニュアンスがあります。
修行の道に入ることも入門です。

では、浄土真宗においてはどうでしょう。
「浄土真宗に入門する」といっても特別な修行が始まるわけではなく、
生活スタイルが変わることでもありません。

「易行の一門に入る」『歎異抄』序文

という言葉がありますが、ここでは「門に入る」に注目すべきとされます。
「入る」とは、「選びとその反復」だというのです。
                (『浄土真宗入門』池田勇諦)

生活スタイルは変わらなくとも、歩みの方向を選ぶ、ということです。
一般的な「入門」の意味する、何かを身に着けていくことではなく、むしろ立ち帰らされること。
それが「易行の一門に入る」という、選んだ方向です。

例えば、「イヤなことがあっても腹を立てない、いい人になろう」と、
心がけて仕事に励んでいたとします。
一日二日は、まあ、ムカッとすることに出くわしたけれども、耐えた。
自分もまんざらではないな、人間ができてきたかな、と。
が、三日目に、ついキレてしまった。
ああ、頑張ったのに元に戻ってしまったなあ、と。
なんだか積み上げた積み木の上の方に立ったつもりが、
また地面に落ちてしまった、というような気持ちになります。

でもそれが自分の有り様。
これ以上、落ちもしない、と思えたら、
力まなくてもいいし、焦らなくてもいい。
それが立ち帰らされることか、と思います。

出たり入ったり 
「真宗の門は、『入ったと思ったら、また、外にいた』というような門」
ある先輩の言葉です。
入ってこれでよし、とか、入って更に突き進む、というものではないようです。
そしてまた、気が付いたら門のこちら側にいた、というもの。

ここからは、私の受け止めた「真宗の門」ですが、
自分が今までの自分と違うものを目指していくのではなく、
自分の原点に戻される。ゼロに帰らされる、といってもよいかもしれません。
でもまた、頑張る。
頑張ることはいいのだけれど、うぬぼれや、付いてこれない相手に不満が出てくる、
それで行き詰まって、見えてくる自分。
その繰り返しが、前述の「反復」です。

出たり入ったりの門です。
それも、どちらが入口でどちらが出口なのか? 

受験の季節。
「入る」のか「抜け出す」のか。
終わったら「立ち帰る」も、加えたいものです。

                         (参考『真実のデッサンⅣ』武田定光)   


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Posted by 明行寺住職 at 16:29│Comments(0)法話
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