2023年11月29日

一人ひとりの『歎異抄』 

一人ひとりの『歎異抄』 

高橋さんの歎異抄
作家の高橋源一郎さんが『一億三千万人のための『歎異抄』』を出版されました。一人ひとりの『歎異抄』 

読み始めたところですが、これまでの『歎異抄』関連の本には無かったことが幾つかあって、
ちょっと新鮮でした。

状況の描写
一つには、状況の描写があること。
例えば、第2条
「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」
を、
「またあるとき、「あの方」は遠くから会いに来た人たちにこういった。
 「こんにちは。シンランです。よろしくお願いします。みなさんは、はるばる関東(カントウ)から、
けわしい山坂を越え、命がけで京都(キョウト)までいらっしゃった。
すごいです。感動しました。あなたたちの真剣さに。
でも、いいですか。ちょっといいたいことがあるんです。
さっき、少しだけあなたたちのお話を聞きました。
みなさんは、なんとかして極楽(ゴクラク)往生(オウジョウ)したいと願って、そのためにいらっしゃった。…」
という具合。

専門に学ぶと、どんな状況だったのかは、もう知っていることになっていて、
あってもなくてもよさそうに思えるようなことです。
専門科目の授業なら、先生が「この箇所は、関東から訪ねてきた門弟に、親鸞聖人が対面する場面で」
と、さらっと状況を解説して、「さて、では往生の理解は門弟たちは、いかに…」と文面の解釈に進むわけです。

それが、あえて、状況描写を加えられると、
「えっ、ほんとうに、そういう状況だったのかな?だとしたら…」
というように、僕の今までの受け止め方を、もう一度考え直させるのです。

一人ひとりの親鸞聖人
もう一つは、一人ひとりの受け止め方がある、と述べていること。
当たり前のことのようですが、
自分でも気づかぬうちに、
「文献的・教学的に正しいとされる現代語訳や解説があるけれども、
 多くの人が訳したりするのだから、少しづつ違う解説がある」
というように思っています。
髙橋さんは、
「たとえば、一冊の本について、一枚の絵について、一本の映画について誰かと話す。
目の前にいる誰かが読んだ本は、なんだかぼくの読んだ本とはちがう気がするだろう。
ぼくが見た絵と、別の誰かが見た絵とはまるでちがう絵みたいだと思うことだってあるだろう。」
と、「ぼくの親鸞」を表したかったといいます。

面々のおんはからい
親鸞聖人(と、僕は表現したいのですが)にどう出遇うか。
何を期待するのか、ということかもしれませんが、

「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」『歎異抄』

という言い方を、親鸞聖人がされます。
「えっ、親鸞聖人がそんなことを?」と思わせる言葉です。
突き放すような表現ですが、それは「一人ひとりで」ということかと。
親鸞聖人の求めたところを、僕は僕の歩みの中で、求めていく。
ということかと思います。



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Posted by 明行寺住職 at 16:29│Comments(0)法話
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