「死者の人権」
「死者の人権」
新たな共同性
桜の時期を過ぎて新緑の季節になりました。
作家の高橋源一郎さんが、「死後に向き合う思索の旅」として、
都会の巨大納骨堂と郊外の桜の木の樹木葬の墓地に行き、
その思いを述べた文章が新聞に大きく掲載されていました。
(『高橋源一郎の歩きながら、考える』朝日新聞 2025年4月29日 オピニオン面)
訪ねた納骨堂と墓地は、いずれも「後継者の心配をしなくていい」というものです。
髙橋さんは、
「ひとり」で生き「ひとりで死ぬ」ことが当たり前になった社会に住む者には、
「死んだ後も生きつづける」場所を護ってくれる「誰」かはもういない。
と言います。
郊外の樹木葬の墓地は「桜葬」といって、
桜の樹の周囲に区画が作られていて、そこに納骨するようです。
この墓地の特徴は、納骨される方々が生前からコミュニケーションを交わしていることです。
「血縁」とは異なる「縁」が生まれ、桜をシンボルとする新しい共同性を作り上げた、
と高橋さんは言います。
死を受け止める存在
死後に見守る「誰か」は、主として家族が担ってきました。
亡くなった後だけではなく、亡くなる前から、
自分の死を受け止めてくれる存在、として家族がいました。
亡くなる前には「何かを伝えたい」ということがあるでしょう。
また「自分の死をとおして、いのちの有り様を教える」ということもあります。
残された家族もまた、肉親の死から自分の生き方を考えてきたのです。
「死後に見守る」誰かがいることは、
いのちの有り様を伝える相手、教わる相手が、
互いに存在する、ということです。
「ひとりで死ぬ」ことは、自分の死を受け止めてくれる存在がいない可能性があります。
そこで、先に述べた桜葬の墓地における生前のコミュニケーションの場に人が集うのでしょう。
「死者の人権」
死を受け止める場、更に言えば、いのちを学ぶ場として、葬儀や法事があります。
「ひとりで死ぬ」ことで、いのちの学びの場は、どうなっていくのでしょうか。
葬儀の有り方が変化してきていると言われて久しいのですが、
宗教的な儀式の場を持つことがいよいよ危うい状況になってきました。
髙橋さんは文中で、
「桜葬」を世に出したNPOの理事長であり社会学者でもある井上治代さんが、
「死者の人権」という言葉を用いていることを紹介しつつ、
「死者の人権」に冷たい社会は、実は「生者の人権」にも冷たい、
と述べています。
日頃、葬儀や法事に携わり、そのあり方の変化に戸惑う私ですが、
「人権」と言われて、責任を自覚させられる思いです。
「倶会一処」
「倶会一処」とは、
共に一つの場において出会っていくこと、
同じいのちとして出会うということ、です。
浄土真宗の門徒のお墓には「南無阿弥陀仏」か「倶会一処」と刻みます。
「倶会一処」と刻むことは、長野市周辺では少ないのですが、
当明行寺ではいくつかあります。
お骨を納めることを通して、同じいのちとして生き、死んでいく、
そのことを確かめてきました。
「人権」という言葉で言われて、そのための場を確保することの重要性をあらためて感じました。
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