いのちの道理
いのちの道理
包装紙は印に沿って
個包装のお菓子。
その包装を開こうと前住職(父)が苦戦しています。
「どっちを引っ張ったら袋が開けるのか。まったく分かりにくい」
文句を言いながら試みていると、家族それぞれが、
「そちらの端に切り口があるでしょ」
「そっちじゃなくて、反対側」
「いや、そこじゃなくて縦の方」
などと言い出します。
余計に分からなくなるのか、
「じゃあ、やってくれ」
となります。
小さな切り口なので見えずらいこともあるのですが、
それ以上に、せっかちであることが、開けることを煩わしく思わせているようです。
若い頃からそうだったようですから。
自分もまた
その様子を横で半ばあきれて見ている僕ですが、
僕も実は似たようなところがあって、
袋の印刷を見ているようでいて、よく見ていないのです。
適当に見て、自分のやり方で変なふうに開けてしまい、
中のお菓子がポロポロとこぼれてしまうことがあります。
また、パソコン作業をしていて、
図や表の作成が分からなくなると、
やり方を検索しますが、
そのサイトでの説明が分かりにくいと、
同じ疑問に応える別のサイトを参照します。
それでも分かりにくく、なかなか進んでいかないことがあるのですが、
ちょっとした操作で、「あっ、できた」と解決できることもよくあります。
後から考えると「なんだ、そんなことか」というような単純なことですが、
説明をよく読んでいない、というのか、
何となく今までの操作方法にどこかでこだわっていて、
解説を受け付けないでいるのです。
パソコンだと、お菓子の包装より高度なことをやっているようですが、
その本質は、どちらもさして変わらないのでしょう。
人生もまた
そんな自分のやり方を坊守(連れ合い)には、
あきれられるのですが、
「子どもの頃からの傾向なんだよねえ」と苦笑いです。
冗談めかして「人生もそうやってるかも」
と自分で言っておきながら、
「そうだとしたら、ずい分、損をしてきたのでは」
と思えてきました。
いや、そうなのでしょう。
「取扱い説明書の無いプレゼント」。
「いのち」について、このように表した先生がおられました。
「説明書」があっても、きちんと読まない、そのとおりにはしない。
だから、とまどい、悩み、時にはもてあます、ということなのですが、
一生懸命やっているつもりで、
先のお菓子の包装紙のようなことをしていたのなら、
もったいないことです。
いのち、人生、にも、「やり方」「扱い方」がある。
それを普通は「生き方」と言いますが、
「生き方」なんて自分の好きでいいじゃない、と思っています。
けれども、先のお菓子の包やパソコン操作となぞらえて考えると、
好き勝手ではもったいない、と思えてきます。
「自分免許ではあぶない」と、
いのち・人生について、おっしゃった先生がおられましたが、
そういうことなのです。
いのちの道理
いのちにも道理・法則があります。
そう言うと、何か特別な「おおせ」があるように感じてしまいますが、
「何事もつながり合って存在する」
「すべては移り変わっていく」
聞けば、ごく当たり前の内容です。
包装紙の例でいえば
切り口を引っ張れば切れる、
切れないところを切ろうとしても切り損なう、なのです。
手数や時間のかかることは、手数や時間をかけるより他はないのですが、
自分のよいようにやって、かえって面倒なことにしてしまいます。
本来のやり方に立ち帰ってこそ、
ことが進んでいくのです。
元旦のお勤めを修正会といいます。
(当明行寺では住職の家族のみで勤めています)
修正とは、そのとおり、
生き方の修正です。
いのちの道理に立ち帰る、軌道修正です。
本年もよろしくお願いします。
関連記事