2024年04月14日

2024度 門徒総会のご案内

2024度 門徒総会のご案内

門徒総会は年に一度、明行寺の門徒(「檀家」)の皆様が集まり、
寺の方針や護持金会計のご承認をいただき、互いに親睦を深めていただくものです。
門徒(「檀家」)以外の方、初めての方もお気軽に、ご家族おそろいでおでかけください。

日  時 2024年5月18日(土) 受付13時30分~  開会14時

勤行 正信偈唱和      
総代挨拶
会計報告
住職挨拶・事業方針説明

記念講演 15時頃~
     
      講 題 「 共に生きる‐相模原障害者施設殺傷事件を通して考える‐」
          
  講 師 難波 教行 (なんば のりゆき)先生 真宗大谷派教学研究所所員、大阪府箕面市 淨圓寺衆徒


恩徳讃唱和   

懇親会  17時頃~ホテル国際21

会場ではマスクの着用をお願いします。
終了は16時30分頃の予定です。

持ち物 マスク、念珠(お数珠)、
    『同朋奉讃』 (オレンジ色の表紙)または 『真宗大谷派勤行集』 (赤色の表紙)

門徒(檀家)の方でなくても、ご来場いただけます。
詳しいお問い合わせは 明行寺まで 026-233-1524

  

Posted by 明行寺住職 at 14:35Comments(0)お知らせ

2024年04月02日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その156

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その156

急に暖かくなりました。
春は眠いです。



  

Posted by 明行寺住職 at 16:23Comments(0)法話

2024年04月02日

新品の「聖典」

新品の「聖典」

真宗聖典第二版発刊

親鸞聖人のご著書や書簡をはじめ、
浄土真宗における、よりどころとすべき教えの言葉を収めた、
『真宗聖典』を、真宗大谷派では刊行しています。
その「第二版」が4月1日付にて発刊されました。
初版との違いは、体裁では、文字のサイズや行間を大きくしていること、
原文にルビを振ってあること、などです。
内容では、底本の変更、年表の充実、

といったことがなされました。
東本願寺出版HP 

僕の書き込み
手に取って開いてみると、見やすい体裁で、
受ける印象が変わりました。
どんな書物でもそうですが、体裁は読もうとする意識に大きく影響するもので、
今回の第二版刊行は嬉しいものです。

今までの聖典
ただ、ちょっと困っていることがあります。
今まで僕が使っていた『真宗聖典』は、自分が学び始めた時からのもの。
書き込みがたくさんあります。
例えば、どの著書のどの箇所が他の著書のどこに関係しているか、
どこから引用しているか、といったメモ書き。
また、特に覚えておく事柄など様々な色のラインを付けたところがあります。
僕など書き込みが少ない方かもしれませんが、
それらを新しい『真宗聖典』に転記するには箇所が多すぎてできるものではありません。

また、長い年月のうちに変色したラインは、
自分の学びの記録でもあって、励みにもなっていたのですが、
当然ながら新たな『真宗聖典』(以下「聖典)に持っていけるものではありません。

今後の研修・講義などでは新しい聖典で行われるでしょうから、
当然ながら、新しい聖典を使わなければなりません。
当分の間、ちょっとした手間と淋しさがありそうです。

再出発

しかし、時には、こういう手間や淋しさをともなうことも必要なのではないか、と思います。
ラインやメモは大切なのですが、
たくさん書き込むと、つい、勉強したような気になってしまうものです。
時々、どうしてここにマーカーを引いたのか、自分でも忘れてしまっていることがあります。
書き込みの無い聖典で、また新たに勉強して確かめる、ということも大切だと思うのです。

もう一つ、仏教の学びということからしても、
そんな学びの積み重ねを一旦リセットするのは大切なことだと思うのです。
なぜなら、学びを積み重ねたから、それなりの人間になったかな、などと、
そんな気持ちが出てくるものです。
「昨日今日、聖典を初めて開いた人」よりも、
長く読み続けてきた自分の方が、すぐれているハズ、という思いが、
つい、出てきてしまいます。
長く読み続けてきて、知識の量は優っているのですが、
そのことイコール、仏教によって目が開かれた、ということではないのです。

新品の聖典で学び始めることで、
またスタートに戻されるような感覚があります。
僕は50歳代半ばですが、ここで第二版が刊行されたことは、
ちょうどよいタイミングでした。
この先の自分を考える時に、思いがけず、学び直しを始めることになりました。







  

Posted by 明行寺住職 at 16:23Comments(0)法話

2024年04月02日

掲示板の言葉 2024年4月

掲示板の言葉 2024年4月

咲くを待ち 散るを惜しみて 花有情

『朝日俳壇』2019年4月28日
  

Posted by 明行寺住職 at 16:23Comments(0)法話

2024年03月02日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その155

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その155

ここしばらく、猫の姿を見かけなかったので、
その姿を写せませんでした。
寒い時期だからでしょうか。
久々見かけたのですが、遠くからの後ろ姿で、
ごかんべんを。
どこか寂しげなのが、また、よいですね。
とは、後付けですが。



  

Posted by 明行寺住職 at 20:27Comments(0)法話

2024年02月29日

掲示板の言葉 2024年3月

掲示板の言葉 2024年3月

人生を終えるとき「ありがとう」言えるような人生が
見いだせているだろうか


松本梶丸(住職)『生命の見えるとき』(中日新聞本社)
  

Posted by 明行寺住職 at 17:47Comments(0)法話

2024年02月29日

希望を託した旋律



希望を託した旋律

僕もそこにいた

信濃毎日新聞に連載されている、作曲家 武満徹の足跡をたどる特集、
「音の河へ 武満徹 信州で紡いだ調べ」の第16回(2月7日)は、
「悲しくも希望を託した旋律」として、
彼の作曲による『死んだ男の残したものは』に込められた思いをたずねるものでした。

僕が中学校の音楽会で歌った曲であり、懐かしく読みだすと、
そのことが文中に出てきました。

「かつて教えていてた中学校の学年合唱で取り上げたことがある…」

この曲が「県内でも歌い継がれている…」ことの一つとして、
武満氏が山荘を構えた北佐久郡の少年少女合唱団の公演でも披露されたとあり、
その合唱団指導者の言葉が続きます。

「歌詞で戦争反対って言わなくても思いが伝わる。
 イデオロギーというより、もっと人間的なものを感じる」

この指導者の先生に、僕は中学校の音楽の授業で教わりました。
「かつて教えていた中学校の学年合唱」とは、
僕もその中の1人として歌った、音楽会でのことでした。

「死んだ男の残したものは
 ひとりの妻とひとりの子ども
 他には何も残さなかった
 墓石一つ残さなかった」

衝撃的な印象を受けました。
それまで学校で教わった合唱曲は、
ちょっと気恥ずかしさを感じる、
「明るい希望」があふれるような曲が多かったのですから、
この「何も残さなかった」という歌詞はなんだろう、と思いました。

作詞者は谷川俊太郎さん。
教科書に出てくる詩は「ちょっと変わってるけど面白いなあ」と
いう印象だっただけに、谷川さんってこんな詩も書くのかと、
意外でありながら、何となく納得しました。


「だから、なんだ…」

思えば、この曲を音楽会で歌うことも、
当時、どこかで不思議に思っていました。
どうして、この曲を選ばれたのかと。

先生から時折、
「死んだ男の残したものは…、だから何だ…」
と、その先に続く自分の言葉を問われることがありました。
指名されて答えさせられることはありませんでしたが、
「だから戦争はいけません」などと単純なことは言えない問いだったことは、
きびしい授業の雰囲気と共によく覚えています。

僕が歌った当時、時代はバブルを目前にしていました。
翌年は戦後40年目にあたる年だったのですが、
それを意識した選曲だったのかどうかは、いつか先生にたずねてみたいことです。
当時の僕は、曲の衝撃的な印象と、先生の熱意なのか熱というべきかに、
応えるのがいっぱいのうちに、音楽会を終えました。

戦後40年から、今度は更に40年。
今年は、僕がこの曲に出会ってから40年。
曲の誕生からは60年になるそうです。
思春期の頃、社会の変化とか時代の流れということを語れる歳になることを、
想像してみたものですが、
その歳になってみて、そんな想像をしていたことを苦笑いせざるを得ません。
予想しなかった変化が起こること、あれよあれよという間に進んでしまうこと、
逆に相変わらずの多いこと、のためでしょうか。
その3つの相を持つ最たるものが戦争だと、「語れる歳」になって感じます。

人間的とは
「思いが伝わる。イデオロギーというより、もっと人間的なものを感じる」
先生のおっしゃる「人間的」とは、そういうことだろうか、
とも思います。

「兵戈無用」(武器も軍隊もいらない)
              『大無量寿経』

「死んだ兵士の残したものは、こわれた銃とゆがんだ地球
 ほかには何も残せなかった 平和ひとつ残せなかった」

経典の言葉と歌詞を並べてみました。
このように表現するのが仏教ですが、
どちらも「戦争反対」とは、ちょっとニュアンスが違います。

どちらも、人間が発する言葉ではなく、呼びかける言葉。
言い換えれば、声なき声を聞いた人が言葉にしたもの、
ということです。

人間がそれに応えるならば、
「何かきっかけがあれば、いのちを傷つけかねない自分である」
というものでしょう。
逆説的なのですが、そのように自覚する人こそが、
いのちを尊ぶことができるのだと思います。

この曲の終わりは
「死んだ歴史の残したものは 輝く今日とまた来る明日」

「最後は長調に感じれられるようにできている」とは、
音楽学者の小野光子氏による解説で、
そこに「希望ををともした」と捉えている、といいます。
どこかで、前述の「逆説」と通じるように思えるのです。

先生、いかがでしょう。
答えるまで、40年お待たせしました。






  

Posted by 明行寺住職 at 17:41Comments(0)法話

2024年02月01日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その154

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その154

雪が積もって、ようやくこの時期らしくなりました。
猫には雪がどの程度冷たく感じているのでしょうか。



  

Posted by 明行寺住職 at 16:29Comments(0)法話

2024年02月01日

門をくぐる 受験の季節に

門をくぐる 受験の季節に

修行のような日々
2月になると、僕にはもう遠い昔のことなのに、
受験の季節になった、と感じます。
高校・大学受験ともに、当時の気分が今もって深く残っているのでしょう。
特に大学受験生である高校3年の今頃は印象深いです。
授業は無く、自宅研修の日々。
週1回の登校日も全員が揃うことはなく、
友達とは長く顔を合わせることのない一人の日がずっと続きましたが、
まるで「修行」のような、人生の中でもちょっと特異な期間でした。


関門
受験勉強には、そんな単調で孤独という苦しさがありましたが、
もう一つ、その意味がなかなか見いだせないことも苦しいことでした。
中学生あたりからその意味に疑問を感じていました。
今なら一つの過程と割り切ってしまいそうですが、
当時は何かの意味を見出すべく、あれこれ考えたものです。
受験生活から抜け出してしばらく経った頃、受験難易度の高いキリスト教系大学の受験告知の掲示板に、
「狭き門より入れ」という聖書の言葉があるのを見つけて、
大学に入るにしても、やっぱり苦労しないといけないのかなと、納得しかけました。
その大学としてはもっと深い意味があっての引用だったのかもしれませんが、
僕の理解は「シャレとしては、うまいことを言うなあ」というところまででした。
そこから先は、どう考えたか忘れてしまいましたが、
「たかが受験、されど受験」で、
あとから振り返って、自分にとっての意味づけをしていくより他はないだろうと、
いうところです。

前置きが長くなってしまいましたが、
何かを目指してひたすら励む日々は、時に修行のように言われます。
一般的な宗教のイメージとはそういうものでしょう。
先ほど「門に入る」という言葉を挙げましたが、
受験をはじめ、選考に通ることを「関門を突破する」といいますし、
何かを始めることを「入門する」と言います。
門に入るとは、何が始まるのでしょうか。

入門する
「入門編」というと、初心者向けのやさしい解説ですが、
「入門する」というと、覚悟を伴うニュアンスがあります。
修行の道に入ることも入門です。

では、浄土真宗においてはどうでしょう。
「浄土真宗に入門する」といっても特別な修行が始まるわけではなく、
生活スタイルが変わることでもありません。

「易行の一門に入る」『歎異抄』序文

という言葉がありますが、ここでは「門に入る」に注目すべきとされます。
「入る」とは、「選びとその反復」だというのです。
                (『浄土真宗入門』池田勇諦)

生活スタイルは変わらなくとも、歩みの方向を選ぶ、ということです。
一般的な「入門」の意味する、何かを身に着けていくことではなく、むしろ立ち帰らされること。
それが「易行の一門に入る」という、選んだ方向です。

例えば、「イヤなことがあっても腹を立てない、いい人になろう」と、
心がけて仕事に励んでいたとします。
一日二日は、まあ、ムカッとすることに出くわしたけれども、耐えた。
自分もまんざらではないな、人間ができてきたかな、と。
が、三日目に、ついキレてしまった。
ああ、頑張ったのに元に戻ってしまったなあ、と。
なんだか積み上げた積み木の上の方に立ったつもりが、
また地面に落ちてしまった、というような気持ちになります。

でもそれが自分の有り様。
これ以上、落ちもしない、と思えたら、
力まなくてもいいし、焦らなくてもいい。
それが立ち帰らされることか、と思います。

出たり入ったり 
「真宗の門は、『入ったと思ったら、また、外にいた』というような門」
ある先輩の言葉です。
入ってこれでよし、とか、入って更に突き進む、というものではないようです。
そしてまた、気が付いたら門のこちら側にいた、というもの。

ここからは、私の受け止めた「真宗の門」ですが、
自分が今までの自分と違うものを目指していくのではなく、
自分の原点に戻される。ゼロに帰らされる、といってもよいかもしれません。
でもまた、頑張る。
頑張ることはいいのだけれど、うぬぼれや、付いてこれない相手に不満が出てくる、
それで行き詰まって、見えてくる自分。
その繰り返しが、前述の「反復」です。

出たり入ったりの門です。
それも、どちらが入口でどちらが出口なのか? 

受験の季節。
「入る」のか「抜け出す」のか。
終わったら「立ち帰る」も、加えたいものです。

                         (参考『真実のデッサンⅣ』武田定光)   

  

Posted by 明行寺住職 at 16:29Comments(0)法話

2024年02月01日

掲示板の言葉 2024年2月

掲示板の言葉 2024年2月

昨日と同じように今日があることの
尊さをかみしめる


『天声人語』朝日新聞 2023年9月24日 

  

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2024年01月08日

令和6年能登半島地震への真宗大谷派の対応

令和6年能登半島地震への真宗大谷派の対応 

被害に遭われました寺院・教会、ご門徒はじめ被災者の方々に対し、
お見舞い申し上げます。
東本願寺ホームページ・ 「真宗大谷派 災害情報」公式X にて、
宗派の対応をお伝えしています。

東本願寺HP 

「真宗大谷派 災害情報」公式X



  

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2024年01月02日

地震による墓石のズレについて

地震による、墓石のズレ、について

1月1日夕方の能登半島地震による被害は、
当明行寺では、建物および人的な被害はありませんでした。

境内地のお墓のうち、墓石がわずかにズレたものが、
5件ありました。
該当するお墓をご利用のご家族様に連絡中です。

お墓では他に、以前からのズレなのか不明なものもありますが、
合わせて連絡しています。

異状が無いお墓については、特に連絡をいたしませんが、
お墓参りの際にご確認いただき、
お気付きの点があれば、寺までお声がけ願います。
  

Posted by 明行寺住職 at 20:05Comments(0)お知らせ

2023年12月31日

掲示板の言葉 2024年1月

掲示板の言葉 2024年1月

自分の手で、自分の一日をつかむ。
新鮮な一日をつかむんだ。


長田 弘 詩人 『食卓一期一会』
  

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2023年12月31日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その153

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その153

暖冬と予想されるこの冬。
そのせいか、この時期でも外で猫をよく見かけます。
とはいえ寒い。少しでも暖かそうな場所を見つけて寝ています。


  

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2023年12月31日

宗教法人の責務とは…坊さんが「税」と書いたら

宗教法人の責務とは…坊さんが「税」と書いたら

新年、あけましておめでとうございます。

お寺も納税しています
昨年末、世相を象徴する「今年の漢字」として「税」が揮毫されましたが、
「坊さんなら、「非課税」と書くべきでは」と言った人がいたとか…。
字が表す世相もさることながら、
そんな声が気になって、寺と税金について書きたくなりました。
一般に「宗教関係は非課税」というイメージがありますが、
僧侶の給与には課税されます。

頂いたお布施は宗教法人の収入であり、
そこから給与として生活費を頂いています。
当然ながら年末調整や確定申告をします。

宗教法人に対しての非課税の扱いは、固定資産税、法人税、宗教活動の収入にかかる所得税などです。

非課税であるからには
例えば寺の駐車場。固定資産税はかかりません。
門徒の皆さんがお参りに来ていただくために必要だからです。
そのことを県や市に届け出て、「境内地」の認証を得ます。
申請にあたり、特に県には「何のための駐車場、どのくらい使用する…」と詳細に書く必要があります。結構きびしいのです。

けれども、駐車場経営をして、収入を得たら、
これは宗教活動ではないので、「収益事業」として課税されます。

では、お布施をいただいたら、どのような扱いになるのかというと…。
そのまま僧侶の収入になるのではなく、宗教法人の収入となります。
続いて、一般企業なら、売り上げ(収益)から経費(費用)を差し引いた利益に課税されるわけですが、
宗教法人では課税されません。
それは、本来の目的である宗教活動に用いなければならない、とされているからです。

宗教が「法人」として在る、ということ
一般企業も、利益を出したら、次の仕事のために用いる点は同じですが、
宗教法人は、その使途がふさわしいかどうかが、より一層問われます。
当然ながら、一般企業のように「株主に配当」ということはありません。
「経営の多角化」や「投資」にしても、本来の目的に適っていなければなりません。
宗教法人が掲げる理念に基づいて用いなくてはならない、ということです。

これが、僕の理解する「宗教法人の公益性」です。
税制上や政教分離の正確なところは、専門の資料を参照いただくとして、
宗教法人が非課税扱いであるのは、その理由こそ大切なのです。

「仏法領」の物
「仏法領」という言葉があります。
「仏の教えによって治められる世」ということです
私たちの現実の批判も含む言葉です。
蓮如上人は、廊下に落ちていた紙切れを見て、
「仏法領の物をあだにするかや」といい、両手でひろって、たしなめられた、とされます。
                   (『蓮如上人御一代記聞書』より)
「仏様からいただいた物」、もう少し具体的な言い方をすれば、
仏教が日常生活を離れてあるものではない、ということもありますし、
何事も自分の思いのままにしてよいものはない、ということでもあるでしょう。

蓮如上人の言葉は、ずっと昔のものであり、
近代的な法律や税制でいう「公益性」とは価値基準が異なる時代の言葉ですが、
宗教法人の、本来の「公益性」はここにあると思います。

新年にあたり
今に始まったことではないのですが、
昨年は宗教法人に対しての批判や疑問が強まりました。
批判の出る状況があるわけです。
新年にあたり、あえて宗教法人の理念の話を書きましたが、
僕自身がそれを確かめるために、自分に向かって言っているのです。

本年もよろしくお願いします。

<参考>
国税庁HP 宗教法人の税務
 
文化庁HP 宗教法人運営のガイドブック  

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2023年11月29日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その152

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その152

困って頭を抱えている…わけがないのですが、
トラブルが起きてるところに手が行きますね。
相方と何かあったか?と思わせる。
距離感と向きもまた、同様。
身体の表現は面白いです。



  

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2023年11月29日

一人ひとりの『歎異抄』 

一人ひとりの『歎異抄』 

高橋さんの歎異抄
作家の高橋源一郎さんが『一億三千万人のための『歎異抄』』を出版されました。

読み始めたところですが、これまでの『歎異抄』関連の本には無かったことが幾つかあって、
ちょっと新鮮でした。

状況の描写
一つには、状況の描写があること。
例えば、第2条
「おのおの十余か国のさかいをこえて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめたまう御こころざし、ひとえに往生極楽のみちをといきかんがためなり。」
を、
「またあるとき、「あの方」は遠くから会いに来た人たちにこういった。
 「こんにちは。シンランです。よろしくお願いします。みなさんは、はるばる関東(カントウ)から、
けわしい山坂を越え、命がけで京都(キョウト)までいらっしゃった。
すごいです。感動しました。あなたたちの真剣さに。
でも、いいですか。ちょっといいたいことがあるんです。
さっき、少しだけあなたたちのお話を聞きました。
みなさんは、なんとかして極楽(ゴクラク)往生(オウジョウ)したいと願って、そのためにいらっしゃった。…」
という具合。

専門に学ぶと、どんな状況だったのかは、もう知っていることになっていて、
あってもなくてもよさそうに思えるようなことです。
専門科目の授業なら、先生が「この箇所は、関東から訪ねてきた門弟に、親鸞聖人が対面する場面で」
と、さらっと状況を解説して、「さて、では往生の理解は門弟たちは、いかに…」と文面の解釈に進むわけです。

それが、あえて、状況描写を加えられると、
「えっ、ほんとうに、そういう状況だったのかな?だとしたら…」
というように、僕の今までの受け止め方を、もう一度考え直させるのです。

一人ひとりの親鸞聖人
もう一つは、一人ひとりの受け止め方がある、と述べていること。
当たり前のことのようですが、
自分でも気づかぬうちに、
「文献的・教学的に正しいとされる現代語訳や解説があるけれども、
 多くの人が訳したりするのだから、少しづつ違う解説がある」
というように思っています。
髙橋さんは、
「たとえば、一冊の本について、一枚の絵について、一本の映画について誰かと話す。
目の前にいる誰かが読んだ本は、なんだかぼくの読んだ本とはちがう気がするだろう。
ぼくが見た絵と、別の誰かが見た絵とはまるでちがう絵みたいだと思うことだってあるだろう。」
と、「ぼくの親鸞」を表したかったといいます。

面々のおんはからい
親鸞聖人(と、僕は表現したいのですが)にどう出遇うか。
何を期待するのか、ということかもしれませんが、

「念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからいなりと云々」『歎異抄』

という言い方を、親鸞聖人がされます。
「えっ、親鸞聖人がそんなことを?」と思わせる言葉です。
突き放すような表現ですが、それは「一人ひとりで」ということかと。
親鸞聖人の求めたところを、僕は僕の歩みの中で、求めていく。
ということかと思います。


  

Posted by 明行寺住職 at 16:29Comments(0)法話

2023年11月29日

掲示板の言葉 2023年11月

掲示板の言葉 2023年11月

見たくないものは見えない 見たいものが見える

畑村洋太郎 失敗学会理事長 
『朝日新聞be』2023年11月4日
  

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2023年10月31日

宗教とは~「自分を知らされる」

宗教とは~「自分を知らされる」

「宗教」の印象
宗教という言葉から連想することは、宗教2世、解散命令、「宗教みたい」…。
よい印象を持たれていないのです。
何か特定の考え方に凝り固まってしまう、そんな印象でしょう。
確かに、そんな教団もありますから、無理からぬ面があるのですが、
そんな印象のために、伝わらないものがあることは、残念です。

対象を見つめる
それとは真逆なものが科学でしょうか。

「科学的に正しい」というと、「信用に値する」印象があります。
僕自身、小学校以来、理科の時間は大好きでした。
生物・化学・地学・物理のいずれの分野も楽しい時間でした。
高校では文系を選択、そして物理は不得意科目になりましたが、
それでも、「文系化学」の時間は少人数で楽しく、熱心に勉強しました。
その楽しさの感覚がどういうものかは、当時は意識したことはありませんが、
今ならこんなふうに表現します。
「対象」となるものを、ちょっと突き放したように見てみたり、
時にはいろいろ試してみる、変化させてみる、それで何かを知ろうとする、というもの。

いや、それはどうも僕もオリジナルな表現ではなくて、高校時代に、教わった、
「実験とは自然を拷問にかけて自白させることだ」という、
ロバート・ボイルだったか(正確なところは、別に調べてください)の言葉が衝撃的で、
僕もそう感じていたかのように思えてしまっている、のかもしれませんが。
ともあれ、僕の「科学」観なのです。

さて、科学が発達した時代には宗教は不必要なものでしょうか。

対象を見つめる自分とは
対象となるものを見つめる科学は、それは必要ですし、
時には、宗教を検証するためにも、必要な方法だと思います。
「科学が全てではない」というと、如何にも宗教的な感じがしてしまいますが、
科学と宗教では見つめる先が異なるのです。

納得がいった時、「腑に落ちる」と言いますが、
宗教は聞いて、その「腑が落ちる」、なのです。

「どうしてなのだろう」「なぜ、このようなことになったのか」…。
と思いめぐらすその自分の「腑」が落ちる。
「自分の思い」で納得したかった、その「自分の思い」が見えた。
見えた「自分の腑」は、どんなであったか。
「腹ぐろい」という言葉がありますが、とても見られたものではない。
でも、見えなければ、自分の見方に気が付けない。
そういうものだと昔の先輩から伝えられてきていることです。

自らを知る智慧
知識が、自分の思いを叶えるためのもの、であるならば、
智慧は、自分の姿を知らせるもの、と言えましょう。
宗教は知識ではなく、智慧です。
宗教もまた言葉・知識をもって語られますが、
言葉・知識という手立てによって表される智慧こそが宗教です。

「宗教にとって大切なことは 自分の弱さを知ることである」
 と語ったのは、宗教哲学者の西谷啓治氏です。

「強い」人と比べて「弱い」という比較よりも、
言葉がきついですが、「愚かさ」なのかと、僕は受け取っています。

聞くほどに、自分の在り様を問う。自分の腑(腹)を問う。
それが本来の宗教の在り様です。

11月28日は親鸞聖人のご命日。
親鸞聖人の問うた自身の在り様を、私もまた自身において問いていく、
ということかと思います。








  

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2023年10月31日

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その151

「境内にやって来る猫たち」に寄せて その151

朝晩と日中とで、温度差の大きい日々。
猫も日中は気持ちよさそうに日向ぼっこしています。




  

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